朴念仁の戯言

弁膜症を経て

あるべき姿勢を模索

象徴のうた 平成という時代 

ことなべて御身(おんみ)ひとつに負(お)い給ひ
うらら陽(び)のなか何思(おぼ)すらむ       平成10(1998)年 皇后

本年、平成30年の歌会始のお題は「語」であった。天皇皇后両陛下は次のような歌を詠まれた。

語りつつあしたの苑(その)を歩み行けば
林の中にきんらんの咲く         天皇

語るなく重きを負(お)ひし君が肩に
早春の日差し静かに注ぐ         皇后

選者として正殿松の間で、両陛下の歌の披講を聞きつつ、思わず頬の緩むのを感じていた。見事な〈符号〉と言うべき二首ではないだろうか。
天皇陛下は「語りつつ」と詠(うた)い出しつつ「あしたの苑(その)」を皇后さまと歩み、偶然「きんらん」の花が咲くのを見いだしたというのである。一方の皇后さまの歌では「重きを負(お)ひし君」が自らの責任の重さを「語るなく」立っている。その肩には「早春の日差し」が静かに注いでいると詠われる。

結婚58年を過ぎ、なおこのようなみずみずしい相聞とも呼びたい歌が、互いを思いやる歌がどちらからも作られる。歌会始のあとの拝謁(はいえつ)のとき、思わず「羨ましいです」と申し上げてしまったが、それは私の偽らざる思いであった。

美智子さまのお歌を聞きつつ、私にはすぐに思い浮かんだ歌があった。それが掲出の一首、陛下即位10年の年の天皇誕生日に詠進された御歌(みうた)である。
「重きを負(お)ひし君」と詠まれた平成30年の思いは「ことなべて御身(おんみ)ひとつに負ひ給ひ」という20年前の一首にも既に紛れもなくあらわれていた。何ひとつ愚痴や苦悩を訴えかけることもなく、「うらら陽(び)」のなかにひとり立っておられる陛下の姿は「何思(おぼ)すらむ」と問いかけずにはいられないほどに深い孤独の影が差していたのだろうか。
皇位という、他には誰一人代替できない重荷を一身に担って、言葉少なに歩いておられる陛下を、すぐ横で見守りながら、時にははらはらされるときもあったに違いない。
「象徴とはどうあるべきかということはいつも私の念頭を離れず、その望ましい在り方を求めて今日に至っています」とは結婚50年に当たっての天皇ご自身の言葉である。

改めて考えてみるまでもなく、この「象徴」という言葉ほど無責任な言葉もないだろう。憲法には第一章第一条に「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴で」ありと規定されている。だが、憲法も政府や国会の誰も、この「象徴」がいかなるものか、どうすれば「象徴」たり得るのかについて、一切述べることをしていないのである。いわば全てを天皇という一個人に丸投げして、あとはお任せしますと言っているに等しい。

「象徴」として初めて即位されたのが現在の天皇であるが、天皇陛下が直面せざるを得ない現実は、誰も規定しない「象徴」という役割を独り引き受け、歩みながら、そのあるべき姿を模索し、手探りでその規定を行う作業であった。
そんな天皇陛下の難事業をすぐ横でいつも見てこられたのが皇后さまだった。自分のやっていることをしっかり見てくれている人間がたった一人でもいてくれれば、それに耐え、それを力に変えることができるというのも真実であろう。

「皇后は結婚以来、常に私の立場と務めを重んじ」「何事も静かに受け入れ、私が皇太子として、また天皇として務めを果たしていく上に、大きな支えとなってくれました」とは、やはり結婚50年に当たっての天皇ご自身の言葉であった。

歌人・細胞生物学者永田和宏さん(平成30年7月19日地元紙掲載)