朴念仁の戯言

弁膜症を経て

何回でも転び 起きる

芥川賞作家にして慶応大の教壇に立つフランス文学者。時には金原亭馬生(きんげんていばしょう)門下の二つ目として高座にも上がる荻野アンナさん(60)は多方面で活躍中だが、20年ほど前からうつ病の治療を続けている。発症のきっかけは、親の介護だった。

画家である母を祖母が支える姿を見て、私も40歳までには子どもを持ちたいと思っていたんです。結婚は反対されましたがパートナーの男性がいて、不妊治療を受けようかと思い始めた頃、母が骨折し、父が悪性リンパ腫で手術を受けました。
父の治療が続いている最中に、パートナーが食道がんになり、最期をみとりました。ぎりぎり子どもを産める時期に介護と看病が重なり、うつ病の症状が出てきたんです。

怠け病と誤解
朝、目覚めているのに起き上がれなくなりました。「早くしないと」と思いながら、2時間かけてやっとベッドを出るような状態です。
それでも、単なる怠け病だと思っていました。「私は怠けている」と自分を責めるんです。当時はまだ「介護うつ」という言葉も知られていなくて、病院に行くという発想がありませんでした。
そのうち、歩いていると、わずかな段差で転ぶようになった。精神的な原因で身体的能力まで衰えるんですね。知り合いの医師に連絡を取ると、すぐに心療内科医を紹介してくれました。

病院へナイフを
父は90歳を超えてから大量飲酒するようになり、朝からビールやワインを飲む。ついに倒れて入院しました。救急で入った病院は10日以上置いてくれません。転院先のスタッフの助けで、長期入院ができるリハビリ専門病院に移りました。
ところが、米国人の父は英語で「元気なのに、なぜこんな所に入っているんだ」とわめくんです。そのたびに病院から「娘さん、来てください」と携帯電話に連絡が入るようになりました。
ある日、大学の授業が終わると「すぐ来てください」といつもの電話です。原稿の締め切りも重なっていたので、私の中で何かが崩れたのでしょう。気がつくと、病院の近くのコンビニでカッターナイフと缶チューハイを買っていました。病室で父を諭そうとしたら、また怒鳴りだしたので「もう嫌、こんな生活!」と叫んで床を転げ回りました。父に飛び掛かろうとしたところで取り押さえられました。心中しようという気持ちがあったのかも知れません。

がんでハイに
5年前に、自分の大腸がんが見つかりました。父は亡くなっていましたが、母の自宅介護が続いていたので「これで休める」とハイな気分になったんです。人の付き添いではなく、自分のことで病院に行ける。最大のぜいたくだと思いました。
人間の体は面白くて、手術後、抗がん剤治療が始まって体がダメージを受けるのに反比例して、うつ病がどんどん良くなっていきました。抗うつ剤も減って、翌年の秋ごろからはしばらく抗うつ剤がゼロになりました。
でも、いつの間にか前よりひどい状態になっていました。起きられないだけでなく言葉が出ない。授業の途中で絶句しちゃうんです。その後、徐々に抗うつ剤を増やして現在に至っています。
うつ病が一種のブレーキの役割を果たして、自分を助けていたんだと分かりました。もしあのままアクセルを踏み続けていたら、とっくにくたばっていたと思います。
研究室の壁に「79転び、80起き」という色紙を貼っています。何回でも転んで、何回でも起きればいい。自分をそう励ましています。

※作家の荻野アンナさん(平成29年10月2日地元紙掲載)