朴念仁の戯言

弁膜症を経て

理屈優先の社会に限界

幼少期から昆虫採集に親しみ、医学部に進んだものの「(医療過誤で)人を殺さずに済む」との理由で解剖学者の道を選んだ養老孟司さん。
「命とは何か」「幸福とは何か」を常に問い続けた人だ。
かねて、日本よりも経済的に豊かではないブータン人が大切にする幸福観に注目し、この小国を何度も訪れては「本当の幸せ」の意味を考えてきた。
ブータンを通して、日本人の幸福観はどう見えるのか。そして、現代の日本人が失いつつあるものとは。養老さんと、ブータンへの思索の旅に出掛けた。

養老さんは約20年前にブータンを初めて訪れた時の驚きを忘れることができない。
「タイムマシーンで戻った気がした。高度経済成長前の日本に」
屈託のなさ、他者への信頼。足るを知り、ほどほどに分相応に生きようとする謙虚さ。他人が困っていると、寄っていって世話を焼いてしまう親切心。多くの日本人が近代化と引き換えになくしていった「大切なもの」が、まだこの国には根付いていると感じた。

「私は都市化を、脳が望んだという意味で『脳化社会』と言うけれど、感性よりも頭で考えた理屈を優先させる社会の限界を、それまで以上に深く考えるようになった」

近年、その傾向は強まり、養老さんの目には「脳化社会」がますます肥大化して見える。相模原の障害者施設殺傷事件や相次ぐいじめ、ブラック企業の問題も「根っこは同じ」とみる。
「生きていても役に立たない」
そうした愚かな結論が出るのは「頭の中の理屈だけで考えようとするせいだ」と養老さん。
「本当は幸福や人生なんて人それぞれで、結論なんてないのに。ブータンで自然に、自由に育った人の面構えを見てるとね、そう思うんです」

輪廻転生の思想 生き物に優しく
野良犬
ブータンの首都ティンプーの街にあらゆる場所で、野良犬が腹を出して寝ている。首をつながれた愛玩犬を見慣れた日本人には、街中で猫のように野良犬たちが寝ている様子は珍しい光景に映るだろう。
「この犬たちの行動がね、ある意味、ブータンという国の在り方を象徴してるんですよ」と養老さん。
信心深いブータン人は、人は死んでも何かに生まれ変わり、再び現世に戻るとの世界観を持つ。輪廻転生の思想だ。
殺生せず、動物をいじめたりしない。むしろ「祖先の生まれ変わりかもしれない」と、せがまれなくても餌を与える。そのまなざしは、犬だけでなく生きとし生けるもの全て、山や森などの自然環境にも向けられる。
この国では、犬にとっても人はおそらく対等な存在なのだろう。パロからティンプーの道すがら、養老さんが虫の観察のため地面を掘ると、野良犬が近づき前足を使って手伝いだした。養老さんは声を出して笑った。
「これって、生き物同士の共感としか説明のしようがない。なぜブータンで自然が残るのか、こんなところに理由があるんですよ、きっと」

自由で印象的な「はにかみ笑顔」
表 情
ヒマラヤ山脈東部の王国ブータンに養老さんと降り立った。空港に近いパロの街は標高2,300㍍。酸素が薄く、速足で歩くだけで息が上がる。
街をわずかに離れると、すぐに照葉樹林が見えた。宗教上の理由で殺生は禁じられ、めったに除草剤もまかないという。虫の音がにぎやかだ。
移動中、制服姿の子どもたちに出会う。1995年にブータンを初訪問した際に、強烈に印象に残ったのが、彼らの〝顔〟だったという。
この日も子どもたちの笑顔を見て「管理されてない、自由に育った顔だよね」と養老さん。
「比べると、日本の子はどうしても官僚的な顔に見えちゃうな。昔は彼らと一緒だったんだけどね」
パロ郊外の険しい絶壁にへばりつくように立つタクツァン僧院。ここで見かけたえんじ色の法衣をまとった若い僧二人も、やはり笑顔が印象的だった。見ている方も釣られて笑ってしまう見事な顔に、この後も行く先々で遭遇した。
古都プナカの寺院で会った僧侶に、養老さんが「いい顔してますね」と思わず言うと、55歳の高僧はさらに大きな笑顔をつくった。恥じらうような彼らの表情に、私たちは「ブータン人のはにかみ笑顔」と名付けた。

発展より心の安らぎ
ブータンが国家理念とする「国民総幸福量(GNH)」を先代の国王が提唱したのは1970年代。物質的な発展よりも心の安らぎが重視され、いわば国民総生産(GNP)とは逆の考え方だ。
ブータンに詳しい研究者の今枝由郎さんは、GNH提唱の背景を「国のサイズが極端に小さく、大国になる可能性がなかったので、世界とは違う方向に行かざるを得なかった」と話す。
人口は約77万5千人。小規模ゆえに人の顔が見えやすい利点もあり、個人の幸福や心の在り方に配慮した政策を取る余裕が生じたという。
精神性に重きを置くブータンの人気が日本で高まっている理由を、今枝さんは「絶えず巨大化を目指すグローバルスタンダードへの追随を余儀なくされ、それに疲れた日本人が増えたからではないか」と指摘している。

※平成29年1月10日地元紙掲載