朴念仁の戯言

弁膜症を経て

重症患者と取り残されて

諦めていい命?

1989年、東京女子医科大に新設された救命救急センターは戦場のような忙しさだった。
大学を出た俺は、研修医として最初の4カ月をここで過ごした。
患者は途切れなく運ばれてきた。
2、3日眠れずに連続勤務することが多く、休日はなかった。
先輩の指導はとても厳しかった。
初出勤からひと月たった頃、大腿動脈を刺された患者が搬送されてきた。意識がなく、脈拍も微弱だった。緊急手術で血管を修復し、何とか救命することができた。
しかし、8床しかない救命センター専用の集中治療室が満床で、仕方なく手術後は別棟の集中治療室に入った。術後の多臓器不全で尿が少ない。かろうじて血圧だけは安定した。
ほっとしたのも束の間、次の緊急手術の連絡が入った。
「おい、君、研修医、この患者を診ておいてくれよ」
そう言い残して、先輩たちは皆、手術室に消えた。
俺は重症患者とともに取り残された。尿が出ない患者の点滴と利尿剤による水分バランス調整は困難を極め、容易に心不全や肺水腫に陥る-。その程度の知識はあったが、まだ経験がなかった。
多忙を極める先輩たちに、いちいち連絡して教えを乞うのは恐ろしかった。ベテラン看護師さんと、ポケットの当直医マニュアル、ナースステーションに常備の薬のマニュアルだけを頼りに、何とか患者の生命を維持することができた。
3日目に教授回診の行列がやってきて、重症患者と俺はようやく発見された。教授を筆頭とする指導医たちは状況を把握すると、すぐに救命センター専用のベッドに患者を移すよう指示を出した。この間、俺は不眠不休で、食事も看護師さんに分けてもらっていた。
「おまえ、バカだなあ」
先輩の一人が意地悪な笑みを浮べて言った。
「新宿でケンカした、こんな入れ墨だらけの身元不明の患者なんて、身をすり減らして診る価値あるのか? 損したと思わない?」
俺は愕然とした。価値のない患者なんていないと叫びたかったが、言葉にならず、ただ睨み返しただけだった。
「だから、俺は救急とか嫌いなんだよ。計画性も方針もないだろ」と、その先輩は小声で言い捨てて踵(きびす)を返し、教授回診の尻尾に加わった。
消化器外科志望の先輩だが、医局長の決める人事は絶対だった。救命救急は好き嫌いでするものではない。失っていい命も、諦めていい命もない。俺は殴りたい気持ちを必死に堪(こら)えた。

※医療法人鳥伝白川会理事長の泰川恵吾さん(平成28年3月24日地元紙掲載「生きること死ぬこと」より)