朴念仁の戯言

弁膜症を経て

絶望 極寒のシベリア 

おい、おかしいぞ。俺たちは、だまされたのか-。
太平洋戦争が終わり、二カ月が過ぎた昭和20年10月。朝鮮でソ連軍の捕虜となった久保田親閲(しんえつ)さん(86)=田村市大越町=ら帰還兵を乗せた船は朝鮮・興南の港から一路、日本を目指していた。ところが、どうだ。南に向かうなら右側に見えるはずの大陸が左側に見える。船内は騒然となった。出航前、ソ連兵は確かに「ヤポンスキー、トウキョウダモイ(日本人は東京に帰る)」と言っていたはずなのに。
着いた先は夢にまで見た母国ではなく、極寒のシベリアだった。

シベリア南東部のスーチャン捕虜収容所では、過酷な労働が待っていた。
一日8時間、休む間もなく石炭掘りをさせられた。食事は、一食につき黒パン200㌘と馬の餌のコーリャンで作ったスープだけ。板の上に干し草を敷き、一枚の毛布に3人でくるまって寝た。冬のシベリアは特にこたえた。目覚めると、隣に寝ていた仲間が冷たくなっていることもしばしば。収容所に入った2,000人のうち、200人ほどが一冬で亡くなった。
遺体を埋葬するのも、仕事の一つになった。「軽作業」扱いで、けがや病気を患った仲間が担当した。凍った地面を二、三日かけて掘り、裸のまま埋めた。「極限状態になると、悲しいとか悔しいとかいった感情が消えてなくなるんだ。他人のために涙を流すことができなかった」

栄養が偏り、大半が壊血病にかかった。皮膚や粘膜、歯茎から出血し、貧血などの症状が現れた。風呂はない。体を洗えないためシラミにも悩まされる。発疹チフスが相次いで発生した。
まだ10代後半。「母ちゃんが恋しかった」。頭に浮かぶのは温かな味噌汁とご飯。腹一杯食べたかった。ただ、それだけだ。逃げようとした仲間は全員、ソ連兵に殺された。じっと耐えるしかなかった。
目の前に広がる青春は鉛色をしていた。

平成27年6月27日地元紙掲載「思いつなぐ~戦後70年 ふくしまの記憶~」より