朴念仁の戯言

弁膜症を経て

頑固な決意

電車のシートに掛けて、辺りを見回すと、なんと多くの人が携帯電話やスマホの画面をじっと見ていることでしょう。
先日は私の隣に掛けていた4人家族全員がスマホを操作し、それぞれの目の前に表れるものに没頭していました。30代後半のパパとママ、そして子どもはやっと4、5歳になったほどの子と、小学2、3年生…といった年恰好の二人。
私など携帯電話というものを持ったこともなく、この先も持つ気は全くなく、パソコンもせず、インターネットを駆使して何でも情報を身近に引き寄せることができるという生活とも無縁の日々。これからも、この暮らしは変わらないだろうと分かっているので、私の目に映った4人の家族は「全く私の想像できない感覚の中で、家族・親子をやっていく人たち」と映りました。
二人の子も、指先を実に滑らかに使い、画面をなでたり、つついたりするような動きをしながら夢中です。
40分以上の時間を、全く無言のままそれぞれの手元の画面に没頭している家族に私が抱いた不思議な感覚、違和感いっぱいの光景が、もし居間でも旅先でも毎回繰り広げられていくとしたら、家族が家族として生き合っている実感というものは、どのように培われていくのだろうと、ふと思いました。
別の日、レストランで隣のテーブルに着いた家族も、やはりそれぞれがずっと料理の皿の脇にスマホを置き、眺めていて不思議だったのを思い出しました。
IT機器が出回るまでは、電車の中で新聞、本などを読む人が大半でした。そして女性たちは季節によって編み物(レース編みなども)をしている姿も、そこ、ここに見られたものです。
おなかの大きい女性が、小さな帽子や靴下を編んでいると、女性の周囲にいる乗客の目は少しずつ手元に手繰り寄せられ、小さく動く毛糸玉など見詰めながら、それぞれに心の内が優しく豊かなものに包まれたものです。
先日、30代のママの方々との集まりで、昔の母たちが電車の中で編み物をすることがあったと告げると、「えーっ! 何ですかそれ?」「どうして、わざわざ電車の中で⁉」と、彼女たちの驚く様子に、こちらが驚きました。昔の女性たちは、〝手持ち無沙汰〟のひとときを手仕事で埋めるという発想があり、その延長が車内の編み物だったのでしょう。
私は今の時代に母親がときどき電車の中で絵本を読んで聞かせている姿を見掛けると、とても心が潤い、幸せな気持ちになります。席を立って、「お母さん!頑張って。偉い、偉い」と伝えたくなります。
私は小さい子どもにはケータイもスマホも与えることに大反対です。なぜならケータイとスマホを与える前に互いの顔を見、あれこれ会話し、教え、伝えなくてはならないこと、家庭で親が実生活の中でやらなければいけないことがいっぱいあります。親は、自分たちが子どもの時分に「必要だった」と記憶しているモノ以外は早々に子に与えていけないと感じます。現代は、子育ての周辺でそのような頑固な決意も必要なことがあふれていると感じます。

※詩人・エッセイストの浜文子さん(平成27年5月24日某宗教新聞掲載「親子によせる 詩ごころ」より)