朴念仁の戯言

弁膜症を経て

業と信念の作家人生

車谷長吉氏が突然亡くなったと聞き、驚いた。
食べ物を喉に詰まらせた窒息死だというから、突発的な事故だったのだろうか。
あの強烈な文章がもう読めないのかと思うと、今後の日本文学がひどく退屈に感じられる。
こんな作家はもう二度と現れないだろう。
大家とも名人とも違う。職人でもない。根っからの異色の人であり、一種の怪物であった。
1990年代半ばに、「鹽壺の匙」をはじめとする彼の作品を初めて読んだときの驚きと戸惑いは、今も生々しく記憶している。おのれと世間に対する呪詛のような激しい嫌悪と容赦のない断罪が、まがまがしいエネルギーとなって充満していた。同時に「言うた」や、「併(しか)し」「迚(とて)も」など反時代的な言葉遣いが、知性と理性に基づく近代の小説言語とは全く異なる地べたのリアリティーを感じさせた。
たとえば、売文の徒となった息子をひたすら非難し嘆く老母の方言交じりの説教からなる「抜髪」という短編がある。「文章を書く」「小説を書く」という行為に、「阿呆(アホ)」で「無能者(ナラズモン)」で「甲斐性なし」の浅ましい偽善と虚栄を母は見いだす。
車谷長吉という作家が自らの中心に据えていたのは、作家の誇りとは正反対の、羞恥と汚れの自覚であった。そこに強さがあった。
泥くさい私小説と言ってしまえばそれまでだが、そう書くより生きようがないという抜き身の刃物を携えているような覚悟があった。
一見、私小説を純文学の中心に据えてきた日本文学の伝統と近しいように思えるが、そんな文士的な伝統への甘えを憎悪し峻拒している苛烈さが、むしろ彼の異色さを際立たせていたのである。
一方、川端康成文学賞を受賞した「武蔵丸」のように、異形の想像力が火花のようにはじけている短編もたくさんあって、そういう方面が実はこの作家に潜んでいる可能性だったのに、十分に評価されなかったきらいがある。
最高傑作「赤目四十八瀧(あかめしじゅうやたき)心中未遂」が98年に直木賞を受賞したときから、彼と文学にとって、ある不幸なねじれが生じたようだ。読者を満足させるようなエンターテインメントを注文に応じて書くような生活がこの作家にできるわけがない。一種の遁世者の姿勢が、それを契機に固着してしまった気がする。2004年に実名の私小説がトラブルとなり、ついに彼が私小説作家廃業宣言をしたことは、さらに決定的な転機となった。
この度の急逝は全く意外だったが、この10年ほどの車谷氏にはどこか余生を送っているような気配がうっすら感じられた。晩婚によって得た家庭生活は幸福だったと思うが、作家としては寂しかったのではないか。いや、それもまた彼流の断固たる放下だったのではあるまいか。だとすれば、自らの業と信念を貫いた見事な一生だったと言わなければならない。
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車谷長吉さんは17日死去、69歳。

※文芸評論家の清水良典さん(平成27年5月23日地元紙掲載)