朴念仁の戯言

弁膜症を経て

兵隊は消耗品だった

1938年と43年の二回召集され、中国やビルマ(現ミャンマー)などに従軍した。私は一兵卒だったが、弟の収吾は士官学校を出た少尉で、同じ歩兵第128連隊に所属してビルマにいた時に亡くなった。軍隊は「兵隊は使えるだけ使え」という主義で、ほんまの消耗品だった。
弟が亡くなったのは44年。ビルマ北部モガウンの守備に当たっていた時だった。6月の雨の降る夜、別の場所にいた私のところまで訪ねて来て「兄さん、卑怯な真似をしても内地に帰ってください。絶対に生きて帰ってください」と言ったので、戦死を覚悟しているんだなと思った。
モウガンでは、ビルマからインド北東部の攻略を目指して大失敗した「インパール作戦」の敗残兵も見た。当時は雨期。増水した川を渡ることができず、溺れて死ぬ人が多かった。みんな疲れた様子だった。
モウガンに英軍が攻めてきた時、弟の部隊も全滅したと知った。その後、私がいた場所も危険な状況になったので、南に向かって退却することになった。
負け戦は悲惨なもの。補給路を断たれて食料がない。爆撃で転覆した汽車から米俵が散乱し、コメをつかんだまま日本兵が死んでいるのを見た。赤痢で、血便を垂らしていた。自分はそのコメを拾い集めて食べた。
食料がありそうな集落を探し、強奪したこともあった。やみくもにジャングルに入っても食べ物はなく、ほかに方法がなかった。
逃げている間も航空機の機銃掃射を受けた戦友は即死。弾が土に突き刺さる時は「ピシュー、ピシュー」と音がする。戦車と戦闘した時も戦友が顔を上げた瞬間、機関銃の掃射を顔に受けた。
軍は兵隊が死んでも令状で集めて補充すればいいという考え。人海戦術はやらないことだ。犠牲者を増やすから。歩兵がえっちらおっちら行ってもだめだ。

(注)ビルマ戦線 太平洋戦争の開戦から間もなく、タイに進駐していた日本軍が英国領ビルマに侵攻し、1942年5月にほぼ全域を攻略。44年のインパール作戦失敗後は連合国軍の反撃を受け、45年5月にラングーン(現ヤンゴン)が陥落した。

ビルマ戦線に従軍した大阪府枚方市の谷川順一さん(98)(平成27年4月16日地元紙掲載「語り残す 戦争の記憶」より)