朴念仁の戯言

弁膜症を経て

音楽支えに生き抜く

性同一性障害

「音楽なんて非国民と言われた時代でした」
戦後、国内外のオーケストラで活躍した元神戸女学院大教授の八代みゆき(89)。
戦時は東京音楽学校(現東京芸大)の学生だった。
幼いころから心と体の性が一致しない違和感を抱き、11年前に性別適合手術を受け、戸籍を女性に変えた。
まだ、「性同一性障害」という言葉が知られてない時代、性別への悩みを胸に秘め生き抜いてこられたのは、戦時否定された音楽を心の支えにしたからだ。

▷暗号は音符
1925年、青森県で生まれた。母はみゆきを産むと亡くなり、数年後に父も他界。東京にいた母の姉夫婦に引き取られた。学校の成績は全部「甲」でなければ駄目と厳しく育てられた。
「女の子の着物や髪飾りを見て美しいと思った」
男の子であることに違和感が芽生え、大砲のおもちゃをもらっても興味がなく、裏の川に捨てた。だが「男の子でしょ」と決めつけられ、髪飾りなど自分が気に入ったものは全て反対された。
「みんな、上のことを聞く時代。叱られても何も言えなかった」
そんな世の中に懐疑的になり、周りが信用できなくなった。
「性別への違和感を誰かに相談しようにも、どうせ理解してもらえないと諦めた」
唯一の心の救いが音楽だった。近くの教会でパイプオルガンの演奏を聞くと、嫌なことも悩みも忘れられた。旧制中学を卒業後、音楽の道に進んだのは自然な流れだ。
青く透き通った空が広がる1月中旬、東京・上野公園の旧東京音楽学校奏楽堂。かつて学んだ荘厳な木造建築を前に、みゆきは何度も「懐かしい」と漏らした。
「当時は芸大に受かっても、誰も喜んでくれなかった」
在学中の19歳の時に召集令状が届いた。
「耳が良かったから、仲間は潜水艦の音を聞き分ける聴音訓練に送り出された」
一方、みゆきの配属先は三重県鈴鹿市の陸軍第一気象連隊。チェロの練習に打ち込む生活とはお別れだった。
「気象情報を扱う通信手として乱数表を使い、暗号は音符に置き換えて覚えた」
一年足らずで体調を崩し除隊に。焼け野原の東京に戻るとあっという間に敗戦を迎えた。

▷性差ない世界
「ここから音楽が聞こえてきた」
敗戦直後の45年9月、焼け残ったスタジオで仲間と室内楽の練習中、突然米軍の憲兵が乗り込んできた。海兵隊員を一晩中踊らせるため、「徹夜でダンス音楽を演奏しろ」と言うのだ。
何とか乗り切ると、これが転機でまた音楽漬けの生活が始まる。50~60年代は米軍のFEN(極東放送)でも毎週日曜に自分の番組を持ち、オーケストラを指揮して30分の生放送をした。
「練習なしのぶっつけ本番。他のことを考える余裕はなくなった」
良く仕事で一緒になる女性がいた。ピアノを弾いていた安子(84)だ。
「スタジオで遅くまで仕事をした同志。そのまま住もうかって」
結婚しても二人の会話は音楽のことばかり。みゆきも自分のことは黙っていた。
「とにかく音楽に没頭して、そこに逃げた。性差を感じさせない世界だったから」
旧西ドイツなど国内外のオーケストラに参加して、一年のうち250日近く家にいないこともあった。

▷離婚し養子縁組
一方で、音楽の世界にも残る男性優位の風潮に反発もあった。
「戦前や戦中と変わらない」
みゆきは、神戸女学院大の音楽学部の教授時代、学内誌に「女たちよ」と題して、「オーケストラは男性だけの聖域ではありえない。クリエイティブなジャンルに性差を持ち込むな」と書いた。
「時代は移り、性の多様性も認められるようになった」
98年に埼玉医科大で国内初の公的な性別適合手術が実施され、社会の理解も進み始める。
「男である自分に区切りを付けたかった」
性同一性障害だと安子に打ち明けた。戸惑いを見せたが深刻ではなかった。
「もともとグレーゾーンと思っていたのかも。でも、向こうも音楽の世界にいて男も女も関係なかったから」
78歳の時、安子が付き添い、タイで手術を受けた。2004年、性別変更を認める性同一性障害特例法が施行されると戸籍も変えた。78歳の時、安子が付き添いタイで手術を受けた。
法律の規定で、性別変更は独身でないとできないため、二人はいったん離婚して養子縁組をした。戸籍上は親子となり、名前も「秀夫」から変えたが、安子が「みゆきさん」と呼ぶ姿は自然だ。
生活の中で、自分が性同一性障害だと意識することはなくなった。
「でも性の話に限らず、自分と違う人に対してこの国はまだ十分寛容ではない」
安子のように、社会全体が少数者を当たり前に受け入れてほしい-。みゆきが優しいまなざしを安子に向けた。

※文・帯向琢磨さん(平成27年3月21日地元紙掲載「戦後70年ゼロからの希望」より)