朴念仁の戯言

弁膜症を経て

「更生の道」共に歩む

元受刑者
出所して4日目、カプセルホテルで目覚めた。
10年間の刑務所作業で得た報奨金約25万円の半分が消えていた。
上京の新幹線代、悪化した腰痛の治療費、宿泊費、食費…。
このままでは、また悪いことをしてしまう。
公衆電話を探し、暗記していた電話番号にかける。
電話先はNPO法人マザーハウス」。
理事長の五十嵐弘志(50)が出た。指定された待ち合わせ場所に急ぐ。
大野茂(仮名)は49年の人生の半分の近く、23年間が刑務所だった。今度の出所の前に、マザーハウスのボランティアと文通していた無期刑の男性に「困ったらここに相談したらいい」と言われた。出所後、行き場がなく、保護観察所や区役所を訪れたが、まともに取り合ってもらえなかった。
「これからどうするの」と五十嵐が問う。
「この社会でやっていきたいです」と大野。
「世間は厳しい。何か悪いことをすれば即、刑務所だよ」
「もう戻りたくないです」
大野の目に力があった。
「じゃあ、サポートしましょう」
五十嵐はすぐに宿を確保、二日後には生活保護も申請した。

▶聖 書
五十嵐は栃木県で生まれた。中二のとき両親が離婚。転校先でいじめられて不登校になり、不良グループに入る。高校は半年で中退、家出して仲間と遊んで暮らした。
18歳のとき就職、仕事も順調で結婚を考えた女性もいたが、女性の親に反対されて別れ、すさんだ。25歳のとき、別の女性に「乱暴された」と告訴され、否認したが懲役4年を宣告される。
刑務所は犯罪者が共同生活する場だ。犯罪のプロたちがいて手口を教え合い、組員は〝使える人間〟をスカウトする。
「まるで犯罪者の養成所だった」
五十嵐もその後、出所しては逮捕され、拘禁生活は約20年に及ぶ。
2002年、二度目の逮捕。ずっと連絡を取っていなかった母と妹を刑事が呼び出し、少年時代からの素行を告げて、母から「死んでほしい」という調書を取った。五十嵐は絶望し、怒り狂った。
留置所に30代の日系ブラジル人が入ってきた。金を貸した相手が返さないので喧嘩になり、怪我をさせたという。陽気で仲間思い、いつも神に祈っていた。
「もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい」
聖書を引いて五十風を諭すこともあった。
拘置所に移されると、聖書が読みたくなった。借り出して何度も読む。マザー・テレサの本にも出会い感動した。ある日、聖書「使徒言行録」の一節、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」というキリストの言葉を読んでいたとき、「弘志、弘志、なぜ、罪を犯すのか」という神の声が重なった。号泣した。
神に祈り、自分が犯した罪を思いつく限り書きとめた。罪深さに愕然とする。はらわたをえぐられるようだった。キリスト者との文通や面会を重ね、生き直す決意を固めた。
刑が確定し、04年に収監。作業拒否で何度も昼夜間独房の懲罰を受けた。「更生の意志がない者とは一緒に作業したくない」と理由を述べた。一人で祈っている方が良かった。そんなとき、刑務官に言われた。
「ここに高齢受刑者の介護をする施設ができる。〝キリストの愛〟をやってるんだったら、見せてみろ」
認知症パーキンソン病の受刑者と同房で24時間、介護するようになった。
「初めは、下の世話もできなかった。文通していた人から『親だと思いなさい』と言われ、できるようになった」
刑務所にはいくつかの更生プログラムがあったが、一方的な講義が多い上、受講者は希望ではなく、刑務所側が決めた。06年の受刑者処遇法施行で、面会や手紙の制限が緩和されたが、すぐに逆戻りした。医療も劣悪。ひどい頭痛を訴えた受刑者が放置され、3時間後にようやく救急搬送されたが、戻って来たときは半身不随だった。徹底した管理は、社会で生きられない人間をつくる。彼らを助けるのが自分の仕事だと思った。11年末に出所。翌春、受刑者や出所者を支援するマザーハウスを設立した。

▶孤 独
今秋、マザーハウスにたくさんのクリスマスカードが届いた。仙台市児童養護施設の子どもたちが受刑者のために作ったカードだ。「一枚一枚見ていると涙が出る」と五十嵐。施設を運営するシスター)に五十風が頼み、交流が実現した。シスターは子どもたちに「あなたたちはまわりから、いろんなものを与えられてきた。今度は何かプレゼントをしよう」と話したという。
「刑務所で一番恐ろしいのは孤独です」
五十風の声に力がこもる。
「自分は社会から期待されていない、何の価値もないという思い。そこから脱出するには社会との関係、人との交流が必要です」
だから五十嵐は今日も、獄中に向けて手紙を書く。

※文・佐々木央さん(平成26年12月20日地元紙掲載「岐路から未来へ」より