朴念仁の戯言

弁膜症を経て

「初恋の少女」誕生の地

川端康成の手紙 会津若松

93年前のきょう、1921(大正10)年10月8日。当時22歳の東京帝大生だったノーベル賞作家川端康成は、岐阜市長良川河畔にある旅館で、15歳の少女に結婚を申し込んだ。この少女が、川端の初恋の人といわれる、会津若松市生まれの伊藤初代だ。

初代は、川端文学のファンには「非常の手紙」とともに知られた存在だ。
「私は今、あなた様におことわり致したいことがあるのです。私はあなた様とかたくお約束を致しましたが、わたしには或る非常があるのです。それをどうしてもあなた様にお話しすることが出来ません」(川端康成「非常」より)
川端は当時、岐阜市の寺に身を寄せていた初代を訪れ結婚を約束する。しかし、一ヶ月足らずで初代から結婚を断る手紙が届く。この失恋の経緯は、川端自身が「非常」「篝火」「南方の火」などの小説や日記に書き残している。
そして、手紙に書かれた、書き間違いとも思える「非常」とはいったい何なのか、なぜ初代は心変わりしたのか―が、長く研究者の関心をひきつけている。
今年7月には、初代が川端に出した手紙10通と、川端が初代に宛てた未投函の手紙1通が、神奈川県鎌倉市の川端邸で見つかったと報じられた。

しかし、故郷で少女のことは、話題に上ることは少なかったようだ。
菊池一夫著「川端康成の許婚者 伊藤初代の生涯」(江刺文化懇話会)によると、初代は1906年(明治39)年9月16日、若松第四尋常小学校(現城西小)の用務員室で生まれた。
父は岩手県江刺郡(現奥州市)生まれの伊藤忠吉。母は、会津若松市博労町の雑貨商大塚源蔵の長女サイ。両親は未入籍(後に入籍)で、用務員室での出産はサイが学校の仕事を手伝っていたためと推察される。二人は初代誕生の翌年、同校の住み込みの用務員となり、初代もここで育つ。
城西小は今も同じ湯川の傍らにある。だが馬場泰校長は、初代について「初耳です。地元でも知らない人がほとんどでしょう」と話す。
初代は、妹の子守をしながら授業を受けることもあったが「成績は悪くなかった」。しかし母の死、父の帰郷―と肉親の縁は薄く、10歳の16(大正5)年、母の実家と一緒に上京した後は「孤児的な境遇」となり子守やカフェの女給をしたという。
初代が、川端と出会ったのは上京から3年後、東京・本郷の「カフェ・エラン」。色白で無邪気な笑顔と、肉親と故郷を失った身の上が、同じく孤児的境遇にあった文学青年をひきつけたといわれている。

※「ふくしま歴史の詩」より(平成26年10月8日地元紙掲載)