朴念仁の戯言

弁膜症を経て

潜伏30年

終戦を信じず、フィリピン・ルバング島に潜み、部下と共に戦い続けた。
16日に都内の病院で91歳で死去した元陸軍少尉、小野田寛郎さんは「頑固な性格」を自負。
「だから30年も戦ったですよ」
情報将校を養成する陸軍中野学校二俣分校で培った記憶力と頭の回転の良さは、晩年も衰えなかった。
部下が死んだ後、帰国までの最後の一年間が「人生で最もつらかった」と振り返った。
目に涙をため、「人間は一人では生きていけない。家族や友人、日本と仲良くしてくれる国も大切にしなければ」と切々と訴えた。
1922年、和歌山県亀川村(現・海南市)生まれ。同分校で特別訓練を受け、44年にルバング島に派遣。敗戦後も任務解除命令を受けなかったとして、部下3人と共に密林生活を続けた。
島民の生活を脅かすことも多く、恐れられたが、逃亡や銃撃で部下を次々と失った。
74年3月に冒険家の故鈴木紀夫氏が発見し、現地に赴いた元上官の任務解除命令を受けて帰国。グアム島から72年に帰還した横井正一さんと同様に注目を浴びた。
「テレビで見て、強い信念と潔い姿に憧れていた」と話す妻町枝さん(76)とは、ホテルのロビーで偶然出会ったことがきっかけで結婚。
日本の暮らしになじめず、75年4月、兄がいたブラジルに移住。中西部カンポグランデ郊外に約1,200㌶の土地を得て「小野田牧場」を設立した。
その後、本県で子どもに自然の大切さを教える「小野田自然塾」を開設。
晩年は東京都内の自宅に住み、ブラジルの夏場に当たる年末年始に牧場に通った。
2012年2月には、牧場に住み込みで働く日系人従業員が作ったブラジル風の肉料理をおかずに丼一杯のおかゆを平らげ、「肉が好きなんです。フィリピンでは、あまり食べられなかったからね」とはにかんだ。
配膳に手間取った町枝さんを一喝。大正生まれの日本男児らしい亭主関白さものぞいたが、夫を見詰め、「愚痴を言わない人」と評した町枝さんの表情は常に柔らかく、晩婚ながら長年連れ添った仲の良さがうかがえた。
牧場では大きな犬をかわいがり、ココナツの実にストローを挿して飲むジュースを好んだ。
馬にまたがり、たてがみをなでる様子は牧場主そのもので、小柄な体にカウボーイハットやブーツが似合った。
「家族の手を握って死ぬのが理想。幼なじみに会えるから日本で死にたい」
仲間や家族を大事にする姿勢は最期まで変わらなかった。

リオデジャネイロ共同=遠藤幹宜さん(平成26年1月18日地元紙掲載)