朴念仁の戯言

弁膜症を経て

古い自分を捨てる

私が18歳の時に洗礼を受けたのは、我ながら愛想のつきた自分が新しく生まれ変わりたい一心からでした。
その頃、日本は戦争中で、浄土真宗という家の宗教の関係もあって、母は洗礼を許可してくれませんでした。

毎日毎夜の空襲で、いつ死ぬか分からない日々を過ごしていた私は、洗礼を受ければ少しはましな人間に生まれ変われると思い、母の意に逆らって洗礼を受けました。
ところが、古い自分を捨てることは難しく、私は相変わらず、わがままで高慢な人間でした。

そんな私に母は失望したのでしょう。
「それでもあなたはクリスチャン」と、事あるごとに私を責めるのでした。
そう言われても、クリスチャンはどうあるべきか分からなかった私は、ある日、それらしきものを聖書の中の聖パウロの言葉に見出しました。

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ神が、あなた方に求めておられることです」(-テサロニケ5・16~18)

かくて私は、少しずつ変わり始めました。
笑顔の少なかった私は、以前より笑顔の多い私になりました。
祈ると言えば、自分中心、ご利益中心だった私は、他人のために祈ること、自分に死んで他人に尽くすことを学び、不平不満が多かった私が、感謝を大切にする自分に変わってゆきました。

これは結局、古い自分を捨てて、キリストに倣(なら)う自分、柔和で謙遜な主に近づいてゆく努力をしたと言ってもよいでしょう。

自分を捨てたつもりでも、新しい自分になるかどうかは神の恵みと自分の努力にかかっていること。
信仰は「持つ」ものではなく、「生きる」ものであることを教えてくれた母に、心から感謝しています。

※シスター渡辺和子さん(平成27年6月15日心のともしび「心の糧」より)