朴念仁の戯言

弁膜症を経て

滅相

「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えてかつ結びて、久しくとゞまりたる例なし」

方丈記』冒頭の有名な一文である。
生じたものは必ず変化し滅びるものである。
しかしながら自己中心的に生き、果てしない欲望に支配されている人間には、今あるものが滅び去ることは辛くて悲しく、とうてい認められない。
だが、この世にあるものは例外もなく、因と縁とが和合して生まれたものであり、条件(因縁)が変われば、このままであって欲しいと思っても必ず変化する。

仏教は、このように変化するものを「有為法(ういほう)」といい、常に変化し続けることを「諸行無常」という。
有為法は、因縁によって生じ、存続し、変化し、消滅する。
この変化をそれぞれ生相(しょうそう)・住相(じゅうそう)・異相(いそう)・滅相(めっそう)と名づけ、有為の四相と呼んでいる。
四相のうち「滅相」とは「消える去るすがた」という意味である。

人間の一生も生・住・異・滅の四相を示す。
人身を得て誕生し、壮健な時期もあるが、やがては老い病み、ついには死んで行かねばならない。
一休さんが「生まれては 死ぬるなりけり おしなべて 釈迦も達磨も 猫も杓子も」と言っている通りである。
先々のことは分からないが、分かっていることはただ一つ。
それは誰もが必ず死ぬということである。
人間もまた「滅相」を避けることはできないが、生き続けたいと願う人間には、「滅相」は「有ってはならぬこと」「思いもよらぬこと」である。
このようにして「滅相」の意味が転化し、今ではお礼を言われた時などに、「とんでもありません」「どういたしまして」という気持ちを伝えるのに「滅相もない」と言っている。

それにしても有ってはならぬ事が多過ぎる。
一国の宰相が、ある日突然、その職責を投げ出してしまう昨今である。
しかし何と言ってもあってはならぬのは自分の死であろう。
まさに「ついに行く 道とはかねて 聞きしかど 昨日今日とは 思はざりしを」(在原業平)である。
「有為転変の世の習い」を忘れるなど、滅相もないことである。

※大谷大教授の木村宣彰さん(大谷大HPより 掲載日不明)