朴念仁の戯言

弁膜症を経て

まわり道をしても…

幼い頃の私たちに、母はよく諺を使って教えてくれました。
その一つに、「急がばまわれ」というのもありました。
急いでいるのなら最短距離を行けばいいのになどと、学校に通い始めた頃の私はそう考えたりしていました。

太平洋戦争がはじまり、私は聖心女子専門学校の国文科の卒業を前にして終戦を迎えたのです。
その時、母は、これからの時代は英語を必要とするから、アルバイトをしてでも、もう一度、英文科に入りなさいと勧めました。

敗戦国において、軍人の家庭は経済的に苦しく、アルバイトをしながら、当時始まったばかりの新制大学の1期生として生活を始めたのです。

戦時中、禁じられた英語をマスターしたい、同時に、家庭に僅かでも現金を入れて家計を助けたい、そんな思いを叶えてくれたのが、当時東京に多かったアメリカ兵士、軍人たちのための上智大学国際学部の夜学のアルバイトでした。

職を得たものの、夜学ですから家路に着く頃は暗く、大きな寺の境内を通って戻る時、怖い目にも遭いました。
事なきを得たのですが、母からは、「今後、まわり道をしても安全な道を通って帰りなさい」と命令されたのです。
そして母は、70歳を過ぎていたのに、毎夜、必ず道の角に立って、私の帰りを待っていてくれたのです。

帰り道、私は、戻ってから頂く母の好きな和菓子2つを買い、着物を着て夜道で待っている、背も丸く、低くなった母を抱きかかえるようにして家路に着きました。
「急がばまわれ」「まわり道をしても」、このいずれの言葉も母の愛情を思い出させてくれます。

それは、危ない道、安易な道よりも、「人」として安全な道を歩き続けなさいという、母の愛の言葉でもありました。

※シスター渡辺和子さん(「心のともしび」平成27年5月9日心の糧より)