朴念仁の戯言

弁膜症を経て

毒性

日常ではほとんど聞かれなくなったが、上方落語などでしばしば耳にする。「どくしょうな目におうた」「どくしょうなことを言いよる」と言った使われ方で、程度のひどいことや毒々しいことを意味している。人に対して用いられる場合もあり、「どくしょうな人や」とか、「どくしょう者」と言う。

地方によっては、現在でもお年寄りの間で使われているが、若い人が実際に使っているのにお目にかかったことはない。時代とともに言葉の意味が変化したり、消えていったりするのは止むを得ないことである。しかし、一つの言葉が消えることは、ものの見方が一つ失われていくことでもある。

さて、「どくしょう者」という言葉。その語源というわけにはいかないが、親鸞の人間観を示す次の言葉とのつながりは深いと思われる。「十方衆生、穢悪汚染(えあくわぜん)にして清浄(しょうじょう)の心なし、虚仮雑毒(こけぞうどく)にして真実の心なし」。つまり、あらゆる衆生は、欲望に汚染されて清らかな心がなく、毒が(雑)まざったいつわりの生き方で、真実の心はない、と言うのである。我々がお互いに傷つけ合うような生き方になっていることを悲しみ痛む言葉である。

「毒」とは、貧(とん)〈むさぼり〉、瞋(しん)〈いかり〉、癡(ち)〈おろかさ〉の三毒がその代表であるが、人間の行いにはすべて毒が雑ざっていると親鸞は言う。毒は文字通り、他人を傷つけるとともに、自分も傷ついていく。しかも、やっかいなのは毒に侵されていることに本人はなかなか気づかない。知らないままに毒を振り撒いていくことになるのだ。

そう思うと、「そんなどくしょうな」という言葉には、人間の毒を感じ取った気持ちが表れている。また、「どくしょう者」という時には、毒に侵されていることへの気づきが含まれていたのではなかろうか。

「毒性」。こんな言葉が消えかかっているということが、問題の原因を外にばかり見て、自分の在り方を振り返ることのない現代の世相をよく表しているのではなかろうか。

大谷大学教授の一楽真さん(平成22年11月号『文藝春秋』掲載)