朴念仁の戯言

弁膜症を経て

先輩に倣う

私は、東京の吉祥寺にある成蹊小学校を卒業してから、四谷の雙葉高等女学校に入学しました。家は浄土真宗でしたが、父が2・26事件で殺されたこともあり、母としては、宗教的雰囲気の中で育つようにと願って、通わせたのかも知れません。

「先輩」などとお呼びしては申し訳ないのですが、その雙葉で若くして校長に任命されたシスター高嶺という方から、私は多くを教えられました。その中で一番感謝していることは、教育の場において大切なことの一つとして、生徒一人ひとりの名前を覚え、かつ、名前で生徒を呼ぶことでした。

雙葉に入るまでは、広い武蔵野で男女共学の小学校で、のびのびと過ごしていた私にとって、急に都心の、しかもミッションスクールは馴染めない風土でした。狭い校庭では物足りなくて、階段を二段飛びに駆け降り、挙句の果て、大怪我をしでかした私は、多分、お行儀の悪い、お転婆としてブラックリストに載っていたのかも知れません。

そんな私を案じて、母が校長宛の暑中見舞いを書かせました。すると、高嶺校長から自筆の礼状が来て、そこには礼とともに「和子さん、早く学校へ戻っていらっしゃい」と書いてあったのです。
夏休み後の私は変わりました。

名前で呼び、一人ひとりの生徒を大切にすること、このことを体験したおかげで、やがて修道者となり、教職についた私は、生徒と接する教師のあるべき様について、ためらいはありませんでした。

その後、管理職を命ぜられ、今日に至っていますが、私の前にはいつも、ご自分(高嶺校長)が思いがけず校長、管区長等を命ぜられた際も、いつも「置かれた場所で咲いて」いらしたシスターのお姿が手本としてあります。

※シスター渡辺和子さん(心のともしび 平成26年11月18日「心の糧」より)