朴念仁の戯言

弁膜症を経て

犯人への共感 原動力

「誘拐」をドラマ化

1963年に起きた「吉展ちゃん誘拐事件」を描いた本田靖春のノンフィクション「誘拐」を読んだ時、「これは絶対に自分が撮らなければならない」と思った。〝戦後〟という同じ時代を生きた一人として、犯人の小原保に強い共感を覚えたからだ。

小原は、本県の貧しい山村の出身だった。シナリオを書くための調査で訪れた小原の生家は、山の陰で日の当たらない、小さな田んぼが斜面に連なる一角にあった。当時、この地区の子どもたちは「頭にわらをつけてくる」と学校でからかわれていたらしい。布団がなかったのだろう。

生家を訪ねると、プロデューサーが差し出した菓子折りを、小原の兄は投げ返して怒鳴った。

「ヒトジニ(人死に)が出たら責任とれるか?」

事件の後、世間の非難を苦にした小原の妹は、井戸に飛び込んで自殺した。

小原は小学校時代、素足にわら草履で山道を学校に通ったため、あかぎれから菌が入って丹毒になり、一生足が不自由だった。

そのため、座っていてもできる時計修理工になったが、借金を重ね、身代金50万円のために事件を起こす。

ぼくが中学時代、疎開先の山形で、母親が手に入れてきたゴム長靴を履いて、雪の中を中学校に通ったことは前に書いた。あの長靴がなければ、ぼくの足もあかぎれになっていたはずだ。

小原は自分だったかもしれない…そう感じたぼくは、テレビドラマ「戦後最大の誘拐―吉展ちゃん事件」を、小原に密着した構成で撮った。もちろん、金のために4歳の子どもを殺した小原は許せない。しかし、彼をそこまで追い込んだものに対する怒りが、ぼくの中にくすぶっていた。本田も同じだったのだと思う。

※映画監督の恩地日出夫さん(平成25年11月22日地元紙掲載「ぼくの戦後」より)