朴念仁の戯言

弁膜症を経て

人間の愚かさ

連日、世間を騒がせる事件が絶えない。
一見して他人事のように思いがちだが、誰も彼もがいついかなる時に被害者、加害者になるか知れたものではない。
「何を戯けたことを。誰が加害者になるものか」
大方の人間は、言下にそう否定するだろう。
そして、内に棲むヒトラー、悪魔、鬼畜、ケダモノの存在に気付かず、生を終えることだろう。
幸いである。
その時代に、その境遇にあったことを喜ぶがいい。

人間の底なしの愚さは、歴史が、戦争が、紛れもなく証明している。
肉親を(社会に)殺され、誰一人として理解者がなく、誰からも必要とされず相手にされず、数々の裏切りに遭い、借金を背負い、世間の信用を失い、病に苦しみ、食べるものに事欠き、将来に不安を抱え、自己の狭い了見が生みだした奈落の底で自暴自棄に陥った時、いかにそこから脱け出し、心安らかな自己に成り代わることができるか。

胸の内に湧き起る様々な欲望を過ぎたるものとして、いかに抑制、放擲させることができるか。

愚かさの自覚。
この意識が罪に歯止めをかけ、人生の問いへの答えとなり、生涯の財産となり、魂の進化ともなろう。

夜叉

平清盛によって鬼界島(きかいがしま)に流された平康頼が赦されて後、撰集した仏教説話集『宝物集』の、邪淫を戒めた一段に、男子修行者の立場から女人を評して、

「外面似菩薩(げめんはぼさつににて)内面如夜叉(ないめんはやしゃのごとし)これは涅槃経の文なり」とある。

男の臆病と不遜が読めるが、現代から見れば、心の変容によって同じものがまったく異なる姿に見えることを表現した文言、とも解けよう。

本来夜叉は、仏法を守護する天龍八部衆(てんりゅうはちぶしゅう)の第三に数えられ、毘沙門天の眷属(けんぞく)とされる。一方、『大吉義神呪経(だいきつぎじんじゅきょう)』には精気を奪い、人の肉血を食とする獰悪(どうあく)の鬼類、と説かれる。

しかしながら平安期以来、巷間に伝わった夜叉は「人の肉血を食とする」という後者が主であった。

とりわけて近代、世間にその名を膾炙(かいしゃ)せしめたのは尾崎紅葉畢生の名作『金色夜叉』であろう。

金色夜叉』は鴨沢家の一人娘宮が、富貴に心傾け、婚約していた間貫一を捨てて資産家富山唯継に嫁いでしまう。「この恨の為に貫一は生きながら悪魔となって」、非情な高利貸となる、という物語である。

特に広く知られているのは、前篇の第八章、熱海の海岸における貫一お宮の別れの場面であろう。

紅葉は「愛と黄金との争いを具象的に」表現せんとしたものである、と述べている。そのわかりやすさと名文とが相俟(あいま)って早くから評判となり、徳富蘆花の『不如帰(ほととぎす)』と共に、覗機関(のぞきからくり)の好材となった。また、昭和二十年代・三十年代の運動会には、仮装行列がつきものであったが、その中に必ずと言ってよい程「貫一お宮」があった。

黄金に心奪われし者は夜叉なり、と紅葉が喝破した如く、夜叉は人の姿である。奪われてはならぬものに心奪われた者が夜叉ならば、現代の我々もまた、その大小を問わず、内心に夜叉を養うものに違いない。

我は夜叉を養う者、という事実だけは、忘れずにいたいものである。

※大谷大教授の沙加戸弘さん(平成23年6月文藝春秋掲載)