朴念仁の戯言

弁膜症を経て

生き残った使命 原動力

一行の背後に膨大な努力がある。山崎豊子さんの書くことへの執念はすさまじかった。原動力となっていたのは、戦争で生き残ったことに対する罪障感と使命感だ。

2010年の冬、堺市の自宅を訪ねた。山崎さんはその数年前から全身が痛みに襲われる原因不明の病に苦しみ、その日は「最悪の状態だった」。質問には、声を振り絞って答えてくれた。だが声は小さく、かすれている。その声を一言も聞きもらすまいと、車椅子のひじ掛けにすがりつき、口元に耳を寄せた。

「枕木の一本一本が日本人の遺体に見えた」と涙ぐんだのは「不毛地帯」の取材に話が及んだときだ。日本人捕虜が敷設に関わったシベリア鉄道を目にした山崎さんの脳裏に、彼らの過酷な日々がまざまざとよみがえったのだろう。シベリア取材を敢行し、強制収容所の跡を探してさまよった。作品は抑留者の悲劇を出発点に、戦後日本人の精神的飢餓をえぐった。

最も苦労した作品を問うと「『大地の子』です」と即答した。中国に残された日本人孤児の壮絶な生を追った一大叙事詩。この小説のために約3年、中国で暮らした。建設現場に泊まり込み、監獄も取材した。「うまく書こうなんて考えなかった。石の筆で岩に刻みつけるような思いでした」

「運命の人」では、沖縄返還の際の日米政府による密約に絡む「沖縄密約事件」を題材に選んだ。沖縄の犠牲の上に成り立つ日本の繁栄の欺瞞を突いた政治部記者に心を寄せつつ、組織ジャーナリズムへの批判も込めた。「私たちは沖縄に迷惑をかけたのではない。犠牲を強いたのです」

1924年大阪市生まれ。戦時中は軍需工場で働いた。「本を読む時間も勉強する時間もなかった。神様には『奪われた青春を返してください』と言いたい」

一方で「生き残ってしまった」という罪の意識がある。「私と同世代の男性は戦場へ行き、女性は徴用先の工場で爆撃を受けた。本当に多くの人が亡くなった」

59年の皇太子成婚の時、夫妻が乗る馬車が皇居前の玉砂利を踏んで音を立てた。その音が学徒兵たちの骨の音に聞こえたという。「戦争で死んだ人たちのことを思えば、生ある限り書き続けなければならない。生き残った者としての使命感が私を突き動かしてきた」

ことし8月から週刊新潮で始めた新連載「約束の海」も、真珠湾攻撃に参戦した父と海上自衛官の息子が主人公の小説だった。戦争の本質に迫ろうとしていたはずだ。

作家にとって最も大事なものは「勇気」だと語った。「『白い巨塔』のときに取材した医学界や『華麗なる一族』で扱った金融界は権威であり、聖域です。書くには勇気が必要だった」

「血を吐くような思いで」取材し「のたうちまわって」書いた。新潮社の名物編集者だった斎藤十一さんに言われたという。「あなたはペンと紙を持ってひつぎに入るべき人だ」。まさにそのような人生だった。

共同通信記者の田村文さん(平成25年10月1日地元紙掲載)