朴念仁の戯言

弁膜症を経て

未来を切り拓く鍵

すでに卒業式も終わり、多くの子供たちや若者たちが母校を巣立っていったことでしょう。震災から二年余り、今年は一人一人がどんな想いを胸に巣立っていったのでしょうか。
「旅人の 宿りせむ野に 霜降らば 吾が子羽包(はぐく)め 天(あめ)の鶴(たづ)群(むら)」
野や山に仮寝の宿をとりながら旅を行かねばならない吾が子が、途中霜に降られて寒くはないか、ひもじい思いをしてはいないかと案じられる。そんな時は、どうかその大きな翼で包んでやっておくれと、天を行く鶴の群れに託して、吾が子の無事を祈る親の切々たる情が胸に迫ってきます。おそらく卒業生を見送った先生方や親御さんの心情も、かくあらむと推察しております。(もし震災で逆縁の方がいらっしゃったらお許しください)。私もまたこの万葉の名歌に託して、巣立ちゆく皆さんの前途に幸多かれと祈らずにはいられません。
そこで新しい旅立ちをした皆さんには、「自未得度先度他(じみとくどせんどた)」を餞(はなむけ)の言葉としたいと思います。「おのれ未だ渡るを得ざる先に他を渡す」と読むのでしょうか。「度」は「さんずい」を付けた「渡」と同じで、「わたす・わたる」の意味を表します。
いま目の前に大きな川が流れています。川の向こう側には幸福になれる世界があります。すると、人は誰でも他人(ひと)より先に川を渡って、あちら側に行きたいと願うでしょう。しかし、それでは駄目だというのです。自分は後回しにしても、「お先にどうぞ」と他人様(ひとさま)を先に渡してやりなさいというのです。
これについて、私が子供の頃、母に教えてもらった「地獄と極楽の食事」の話を思い出します。
食事の合図が鳴ると地獄の人々が「腹が減った。腹が減った」と集まってきます。席につくと一人一人に箸が渡されます。ところが、この箸は1㍍もあろうかという長い箸なのです。食べ物が並べられると、我先にと食べ始めるのですが、口に運ぼうとしても、長い箸が邪魔をして急げば急ぐほど思うようにゆきません。隣同士で争いが始まる始末です。結局、食べ物がほとんど残ったまま終了の時刻がきてしまいます。お釈迦様は地獄の人々が皆、顔色が悪く痩せ細っている訳が良く解りました。
次に極楽の食事の様子です。極楽でも長い箸が配られます。しかし、食事が始まってもガツガツしません。長い箸で食べ物をつまむと、それを自分の口には運ばず、向かい合っている相手の人の口へ「さあどうぞ召し上がれ」と運んでゆくのです。相手の人に食べさせてやり、自分も相手に食べさせてもらうのです。食べ物は何一つ残りません。
お釈迦様は、極楽の人々がいつも楽しそうに暮している訳がよく解りました。
これは子供心に鮮明な印象となって、その後の私の生き方に大きな影響を与えました。
「忘己利他(もうこりた)」(自分のことは後にして、人の役に立つことを先に)-この極楽の人々の考え方こそ幸福になる極意なのだと、この話は教えています。そして、震災発生時に世界を驚嘆させた「支え合う日本人の生き方」に通じるものがあると感じています。
原発事故を背負った福島県にとって、前途は厳しいものがあるかと思われますが、冬の大地にも早春の芽吹きが準備されているのが天地大自然の常です。若い皆さんが「自未得度先度他」を心の柱に、故郷の復興・新生福島の芽吹きの原動力となってほしいと願わずにはいられません。

※土屋秀宇さん(平成25年3月26日地元紙掲載)