朴念仁の戯言

弁膜症を経て

多読に警告 まず思索を

人生の大半を読書に時間をつぶす人間が結構いるが、ぼくは45歳まであまり読書をしてこなかった。そんなぼくよりさらに上がいた。映画監督のフェデリコ・フェリーニである。彼は50歳まで読書をしなかったという。すると彼のあの想像力にあふれた天才的な映画は読書と無関係に生まれたということになる。
こんな話を聞くと、ぼくはホッとする。今でこそ本は読むが、その結果、何の知識も教養も得られず、時間の無駄遣いをしたにすぎないと時には後悔することもあった。では一体、読書とは何なんだと誰かに問いたい。そんな時に読んだのが、ドイツの哲学者ショウペンハウエルの「読書について」だった。
著者は「読書とは他人にものを考えてもらうことである。一日を多読に費やす勤勉な人間はしだいに自分でものを考える力を失っていく」と警告する。文学者や学者で多読を自慢する人は多い。自慢するだけあって物知り博士であり、頭が良さそうだ。頭が良くなるためには多読しかないのかと絶望する人にとって、この本は光明の書である。
人間には思索向きと読書向きの頭脳があるという。思索タイプは自らの衝動に従って動くが、対して多読タイプは精神から弾力性をことごとく奪い去られるというのだ。これじゃ洗脳と変わらない。
自ら思索の道から遠ざかるのを防ぐためには多読は慎むべきだ、真に価値あるのは自分自身のために思索した思想だけだという。読書はいってみれば暗記した言葉の記憶を並べるだけで、その人の魂や人生を向上させることとは何の関係もなさそうだ。本を読むなとはいわない。まず一歩は思索からだ。

※美術家の横尾忠則さん(平成23年10月29日地元紙掲載)