朴念仁の戯言

弁膜症を経て

タロとジロに救われた青春

昭和34年1月15日、私にも「成人の日」が来ていました。若者たちの久しぶりの邂逅は、会場を賑やかにしていましたが、お祝いの言葉が始まると、厳粛な雰囲気に包まれていきました。式の途中で、歴史的なニュースが報じられたのです。司会者が「嬉しいニュースなので、お伝えいたします。第1次南極観測隊が置いてきたカラフト犬のうち、タロとジロの2頭が生きていたことが判明したそうです…」。
この割り込み放送は、会場の全員を総立ちにさせ、歓声と拍手は暫く止みませんでした。勿論、私もその感動の渦の中に居たのですが、実はこの時、私は報道の喜びとはまったく異質な、一つの心配ごとを抱えていたのです。
母の病でした。余命半年と医師に告げられていた母は、入院7カ月に入っていました。この成人式への出席も病院からでした。成人証書を手にしたら、急いで病室へ戻らなければなりません。当時の病院は完全看護ではなく、家族の誰かが付き添っていなければならなかったのです。
畳2枚の病室は、母が苦しみ呻吟しているベッドの他に自分自身が寝る空域しかありません。20歳の青年が過ごすにはあまりにも狭く、私に与えられた僅かな自由は読書でした。母は私の成人式を見届けるように、それから1カ月後に他界しました。
私は母の看病のため高校を中退していたので、母を喪った悲しみに加えて目標を見失い、自暴自棄的になっていました。心はもぬけの殻のようになり、「道」を見失い、一歩間違えば奈落の底のような生活をしていたのです。一家は離散し、気が付いてみると、自分の周りには無目的で、生活力のない若者がたくさん集まっていました。
成人式から無為な1年が過ぎようとしていました。あの時の同級生は皆立派に見えました。自分は負け犬なのだ。犬以下かもしれない。犬!そうだ、あの成人式の日、タロとジロのニュースがあったけ、感動的だったなあと思いだした時、突然、不思議な心持ちになりました。あの2頭は南極で極寒の中を生き抜いたのだ。私の人生の先は見えないが、方向を見失ったら一度原点に返るべきではないのか…。
私は高校への編入を決意しました。21歳の春でした。タロとジロが極寒の中で生き抜いた峻厳に比べたら、小さな恥とか外聞はあっさり削ぎ落すことができました。しかも、末っ子の私が母を看取ったということは、宿命的にもっとも早く別れなければならない親子に、少しでも長くと時間を与えた天の配剤だったのだとも思えました。
もし、成人式に出席せず、タロとジロのニュースを聞かなかったとしたら、その後の私の人生は、変わったものになっていたに違いありません。タロとジロが人生の転機を与えてくれたのです。50年以上も前の話です。

郡山市・学校法人顧問の成田努さん(平成22年12月28日地元紙掲載)