朴念仁の戯言

弁膜症を経て

手紙 №19

拝啓 邦子さん
私は目が悪いので「この生命ある限り」を、秘書に読ませました。秘書の声音がたえず濁ります。私の目はその都度曇ります。心からご同情いたします。
私は主義に生きるため、努めて苦難の道を選び、死に勝る一生を送りました。この苦しみは八十を過ぎて私の楽しみとなり、老後の幸せを喜んでおります。邦子さんも過ぎし苦難を、必ずや楽しまれる心境になられると信じます。もうなられたのではないでしょうか。
出光の社員、特に女子事務員の純情を知らされた私は、いま徳山製油所に来て、女子事務員の姿を尊く見つめることができました。ありがとう。
これから九州、四国を巡り、月末に帰京し、来月にはまた関西に出かけますが、できるだけ早い機会に見舞に参ります。大いにがんばりなさい。お互に。さようなら。
 昭和43年12月6日
                                 出光佐三

夢ではなかった。信じられなかった。出光興産株式会社の創立者であり、会長さんである方が、すでに何年も前に退職して、籍もない元従業員の私にお手紙をくださるなど、どう考えても信じ難いことだった。
手紙は速達便で、会津若松出張所気付で届けられた。私たちにとって、企業の創立者などというのは、まさに雲の上の人で、所長さんにとっても同じだった。むろん会ったこともない。元の上司である高橋所長さんは、緊張した面持ちで、手紙を届けてくださった。私を頼む、と直接電話があったのだと言った。出張所に、創立者から直接電話が入るなど、ありえないことだった。
私はタオルで手を清めてもらい、恐る恐る封を開いた。手が震えた。巻き紙に毛筆でしたためられた美しい手紙だった。巻き紙の柔らかな感触に、感極まって、文字がかすんだ。
「人間尊重」を、唯一の会社の定款(ていかん)として、一代にして出光興産を、日本を代表する企業に育て上げられた方だった。「出光大家族主義」という言葉をよく聞かされていたが、こんな形で私は今、かつて私が出光大家族の一員であったことを思い出しながら、「社員はすべて私の子ども」との出光さんの言葉を思い出していた。
年が明けた昭和44年1月10日、豪雪の初市の日だった。本当に出光さんが見舞いに来られた。
「クーちゃん、来たよ」
にこやかな笑顔で開口一番、そう言われた老紳士。-店主-。私の胸は早鐘のように鳴った。長身で白髪の立派な紳士だった。84歳と聞いていたが、ずっと、お若い。
目が不自由なので、左手に特製の懐中電灯のようなものを持っておられた。しっかりと私の右手を握られた店主は、最後までその手を離されなかった。
「よかった。よかった。悪かったね、長い間知らないでいて。でも、もう大丈夫だよ、心配いらない」
慈愛に満ちた、優しい言葉だった。秘書室長や秘書、仙台支店長、高橋所長、主治医や事務長が病室の中にいた。私はひと言も話せなかった。

※エッセイストの大石邦子さん(平成22年9月某日地元紙掲載)