朴念仁の戯言

弁膜症を経て

神を呼ぶ №17

私の高校は、旧制の女学校時代の建物を引き継いだ、古い木造平屋の学校だった。ただ、どういうわけか正門前に教会、裏門前にも教会があった。表は日本キリスト教団、裏はカトリック教会だった。
県立の学校で、こんなにも教会にぴたりと挟まれた学校は、全国広しといえども、ここだけだと思う。どちらも歴史ある教会で、その昔、野口英世が通い、上智大学の創立をローマ教皇に建白した山口鹿三の通った教会である。
どの教室の窓からも、どちらかの教会の十字架が見えた。あのころ、何年か後に事故に遭うなどとは、夢にも思っていなかった。
やがて私の人生は一変し、長い寝たきりの生活となった。絶望の日々だった。そんな私を救いたいと、多くの宗教関係者が訪ねてきた。日本には、こんなにもたくさんの宗教があったのかと驚かされた。人々は私の枕元で、因果応報を説き、一日も早く前世の因縁を断ち切らなければ、来世でも同じ苦しみにあえぐであろうと説いた。
私は、彼らの来訪におびえ、目に見えぬ前世の因縁におびえた。恐ろしかった。
そんなとき、ふと高校の教室の窓から見えた、教会の十字架が思い起こされた。あの宗教も、こんなに恐ろしいことを言うのだろうか、と思った。痩せ果てて、力なく頭を垂れた十字架上のキリストは、子どものころ、私にはひどく気持ちが悪かった。その気持ちの悪かった「キリストという人」が、無性に気になり始めていた。
ベッドにくぎ付けになったように、身動きできない私と、あの肋骨の浮き出た体で、それも裸で、磔(はりつけ)になっているあの人。私は手にも足にも、実際にくぎが打たれているわけではないが、あの人は手にも足にもくぎが打たれ、脇腹には槍が刺し貫(つらぬ)かれていた。
どんなに苦しく、どんなに恥ずかしく、どんなに惨めだったろう。
私は何度も、磔のキリストの掌(てのひら)のくぎを抜く夢を見た。心臓が飛び出しそうになって、目が覚めた。くぎは抜けなかった。あの人に会いたい、と思うようになった。あの人になら、今の私の気持ちが分かってもらえそうに思われた。
そして教えてほしかった。どんな因果で、あなたは磔にされたのか。なぜ神の子などと呼ばれている人が、そんな目に遭わなければならなかったのか。そんな哀しい姿で、なぜ「救い主」などと呼ばれているのかを…。
私は、こうしたキリストへの思いを、枕元のノートに、何度も書いていた。おそらく母は、私が昏睡状態に陥(おちい)っていた間、私の傍(かたわ)らでこのノートを繰り返し読んでいたのだと思う。私が、「神を呼んでいる」と、思いながら…。
意識が戻って、洗礼のことを知った私は正直戸惑いはしたが、今は母の愛と祈りから生まれた贈り物だったと、深く感謝している。
洗礼のことも、苦しかったことも、多くの人々の励ましも、すっぽり抜け落ちて、昭和43年の夏の記憶は、私にない。

※エッセイストの大石邦子さん(平成22年9月某日地元紙掲載)