朴念仁の戯言

弁膜症を経て

妹の涙 №14

私が倒れた時、妹は高校1年生だった。高校は汽車通学だったので、冬は暗いうちに家を出なければならない。3年間、自分で弁当を作って学校に通っていたと聞いた。かわいそうだった。
母はがんの手術を受けた後だったので、無理ができなかった。妹はそれでも明るく、美術への夢のために頑張っていた。その夢まで、私は奪い去ろうとしていた。
帰郷することを父に懇願された翌日、妹は上京していった。そして10日余り後、学校を辞め、東京を引き揚げてきた。
しかし、妹は愚痴ひとつ言わず、その日から、私のベッドの下に寝泊まりしての介護の日々が始まった。
「ほんとはね、わたしはあまり勉強好きでないから、ちょうどよかったんだ。学校辞めたかったんだ」
妹は、明るく言った。妹の、あの夜の涙を知っている私には、胸のザクザク痛む言葉だった。この子の夢を、私は本当につぶしてしまったのだと思った。
私のために、みんなが犠牲になり、苦労していた。自分の「いのち」が呪わしく思われた。
楽になりたいと思った。楽になるには、死ぬ以外ないのだと思った。しかし、身動きのできない人間には、死ぬ方法すらない。
楽になりたいと思い始めると、そのこと以外考えられなくなってしまう。不思議だが、本当に苦しいときというのは、時間が止まってしまう。この苦しみが永遠に続いてゆくような錯覚にとらわれてしまうのだ。
そんなことは、決してないのに。どんなに苦しいときでも、時間だけは確実に流れ去っているのに。それも単に流れ去っているのではない。死ぬ以外ない、と思うような想いをも、少しずつ、少しずつ道連れに、流れ去っているのに。苦しい真っただ中にいるときというのは、それがそう思えない。
けれども、時間というのは、本当に大きな力を持っている。時間が解決してくれる問題というのは、たくさんある。今の私には、それが痛いほどに良く分かる。
以前のことだが、私は楽になりたくて、愚かにもためておいた薬を大量に飲んだことがある。しかし身動きのできない人間が、病院で薬を飲んで死のうなど、いかに浅はかな素人考えであったか。
私はこんこんと眠り続け、ガソリンを飲み込んで、おなかの中で火を付けられたような思いの中で目を覚ました。内臓が焼ちぎれてゆくような、口からは、ゴウゴウと音を立てて炎が噴き出すような、今まで味わったことのない、薬物によって焼かれる苦しみだった。
命は助かったものの、声帯が侵され、視力が侵された。声帯は次第に回復したが、視力では今なお、不自由を感じている。
誰のせいでもない。私は自分で、自分のかけがえのない体を傷つけてしまっていたのだ。自分のしてきた行為の浅はかさが、悔やまれてならない。
「クーちゃん、頑張って、前向きに生きていこうね」
私のベッドの下に寝泊まりを始めた20歳の妹が、ベッドの下から言った。

※エッセイストの大石邦子さん(平成22年8月29日地元紙掲載)