朴念仁の戯言

弁膜症を経て

対象は「心」と「いのち」

貝原益軒の攻めの養生
これまでの養生といえば、身体に焦点を合わせたものだった。だから身体をいたわって病を未然に防ぎ天寿を全うするといった、どちらかというと消極的で「守り」の養生であった。だが、死をもって終わりではつまらないではないか。
死後の世界があるかないか、誰をもってしても断言できる問題ではない。しかし、ぼんやりとでもその存在を予感している方が、胸に秘めたる人生の「旅情」が深まるような気がする。旅情が深ければ深いだけ、生が充実してくるのではないだろうか。
ひるがえって、これからは「攻め」の養生が必要だと思う。作家の五木寛之さんも著書「養生の実技」の中で「あす死ぬとわかっていてもするのが養生である」と述べている。まさに、これが真理だろう。
「いのち」は生命場のエネルギー。死ぬその日まで日々、いのちのエネルギーを高めていき、その勢いを持って死後の世界に突入する。こうしたより積極的な養生が、攻めの養生である。
昔、それもはるか昔の幼い子どものころ、講談社の絵本で、江戸時代の儒学者貝原益軒に出会ったことがある。だからと言うわけではないが、何となく、益軒を守りの養生の代表格のように思っていた。
ところがさにあらず、約300年前に益軒が書いた「養生訓」を読み返してみると、彼こそ攻めの養生の人であったのだ。
例を挙げてみよう。
「人の元気は、もと是(これ)天地の万物を生ずる気なり」。私なりに解説すると、時空を超えて広がる大いなるいのち(スピリット)の一部が私たちに宿ったもの、それがいのち(ソウル)、という意味である。
「養生の術は先(ま)ず心気を養うべし」。養生の対象は身体ではなく、あくまでも心といのちである。
どうです。攻めの養生の最もたるものでしょう。

※埼玉県・帯津三敬病院名誉院長の帯津良一さん(平成22年4月15日地元紙掲載)