朴念仁の戯言

弁膜症を経て

バレンタイン命日

11年前に逝った父の祥月命日は2月14日、バレンタインだった。享年73は若すぎるけれど、54歳で最初の脳梗塞発作を起こし、以後、いくら言っても喫煙を止めなかったゆえ、さらに二度の発作で寝たきりになり、関節リウマチや心筋梗塞を併発した果ての肺炎による死亡だった。
上州の家で連れ合いが介護しており、冬季にはいくつかの私立病院に入院した。毎年秋に彼女からの電話で、いつごろ、どこの病院に入院させればよいか、と問われるのが苦痛だった。息子が医者なのだから自分の勤務する病院に入院させれば簡単だろうと世間に思われるのが辛かった。
専門医療を必要とする患者さんでいっぱいの公立の総合病院に、緊急を要しない病人を収容する余裕はない。そういって多くの患者さんを他院に紹介してきた身が、自分の父親だけを特別扱いするわけにはいかない。そこで、空きベッドのある私立病院に頭を下げて入院をお願いしてきた。古い家なので寒くて置けないので冬場だけなんとか、と。
連れ合いが付き添うために個室が必要だったから、毎年のこととなるとかかる費用はばかにならなかった。最後の年は連れ合いも介護に疲れ果て、信州の家に引き取り介護した。同じ病院の若手医師が往診してくれたが、気管切開やチューブでの栄養補給は不要な旨を伝えておいた。
この言明がなければ、すなわち息子が医者でなかったら父はもっと長生きできたかもしれない。むき出しの事実はいつも笑い話と紙一重だ。バレンタイン命日を迎えるたびに、この身が生きのびるために為したことへのうしろめたさがつのる。

※作家・内科医の南木佳士さん(平成22年2月12日地元紙掲載)