朴念仁の戯言

弁膜症を経て

不食という生き方②

どんな存在であれ、つながっている

争うというのは「善悪のラベル貼り」です。
自分は正しく、相手は間違っている。
それをどんな方法を用いて明白にするか? 係争はその最もたるものです。
相手を非難することで一方的な立場を得ると、一時的に高揚します。自分の正義が認められ、戦場で勝利したかのようないい気分です。以前の私も裁判のたびに、いい気分を味わいたいと思っていました。
でも、目の前で恐怖に怯えているその相手は、自分と「つながっている」存在であることを、忘れないでください。
相手を責めれば責めるほど、その負のエネルギーは後ほど自分へと返りますから、自分の持つエネルギーは汚れます。そうではなく、こちらから愛を送ることで相手の心も愛に包まれ、戻るエネルギーで自分も愛に包まれます。
世の中は、私たち自身の「写し鏡」です。
荒んだ社会も、気持ちいい社会も、私たちが変わることですぐに実現します。一人ひとりが発するエネルギーで作られるのが社会であり、私たちは好むと好まざるとにかかわらず、すべてにつながっています。
世の中は「自他同然(自分も他人も一緒)」です。
悪いニュースを目にしたとき、被疑者や被告人を責めることは簡単ですが、では自分なら正義を貫けただろうかと、想像してみてください。その嫌悪感を自分への戒めにできれば、心を浄化できます。
そんな想像力こそ、社会を進化させるための原動力です。
私は食べることをやめて、つながりが見えるようになったと言いましたが、さらに判明したことがあります。
それは、私がお会いする人の多くが、以前の人生(過去生)のどこかでお会いしていた人たちということです。実に楽しい発見でした。
太いつながりもあるし、細いつながりもあります。こういうのも再会、あるいはリ・ユニオン、または同窓会とも言えるかもしれません。
何も私だけではありません。この本を読んでいる皆さんも、皆さんの周囲の方々と、どこかの生で出会っている可能性が高いと思います。
「以前の生で解決できなかったことを、解決するために出会っている」
人生は、常に誰かとの共同作業です。
各人が課題を持ち寄り、その解決のためにおたがいに努力しますが、生きていられる時間が限られているから、何度も生まれているのかもしれません。
何だか争いごとが多いなあと感じる人は、今回の人生の課題に「争わない」というテーマがあるのではないでしょうか。
※弁護士・医学博士の秋山佳胤さん