朴念仁の戯言

弁膜症を経て

楽屋で聞いた いまわの〝喝〟

◆母の最期
私は、母の龍千代が大好きだった。15歳で娘歌舞伎の世界に飛び込んだ母は、とても厳しく、そして優しい人だった。
私が4、5歳の時、当時流行したインフルエンザで40度の熱にうなされ、ほとんど意識がなくなってしまった時があった。
医者が「すぐに病院に連れて行きましょう。そうしないと死にますよ」と言うと、母は「先生、帰ってください。この子、舞台で殺しますから」と言った。
そして母は「とんちゃん、お客さんがあんたの演技を見るために高いお金払って待ってるんだよ。役者なんだから出てお行き。休みたいなら舞台で倒れな!」と言って、私を舞台に立たせた。後に妹からは、母は舞台の袖で泣いていたと教えられた。
その母が白血病だと聞かされたのは、私が28歳、母が66歳の時だった。医者は「もって半年ですね」と言った。兄弟全員が、愕然とし、兄の武生は「おふくろの好きなことさせような」と力なく言った。
「母ちゃん、どっかに行く?」と聞くと、母は突然「台湾に連れて行ってくれないか」と言った。母は、娘歌舞伎で座長をしていた戦時中、慰問で台湾に行き、芝居と踊りを披露したという。
その時、担架で運ばれて来た今にも死にそうな兵隊が、母の芝居を見て涙を流したそうだ。その姿を見た母は、女優になって良かったとしみじみと思ったという。
兄弟全員で、母を台湾に連れて行った。もう劇場はなかった。私が「ここに劇場があったんだよ」と教えると、母は「わーっ」とその場に泣き崩れた。すると、それから急に元気になり、なんと20年近くも生きてくれたのだ。
15歳で入団した私に「飲む、打つ、買うは役者の基本。芸の肥やしになる」と言って、遊びを奨励したのも母だった。飲まなければ飲べえの気持ちは分からない、ばくちを打たなければ負けた時の悔しさや表情が分からない。そして母は「見栄を張ってでもいい服を着な。ぜいたくもしてみなきゃ、人間の本当の気持ちなんて分からないよ」とも言った。
母の最期の舞台は1997(平成9)年12月、明治座公演楽日のフィナーレだった。車いすで登場した母は「これからも倅たちをよろしくお願いします」と深々と頭を下げ、万雷の拍手を浴びた。その時の光景を思い出すと、今でも目頭が熱くなる。
99年7月8日、母が亡くなった。85歳だった。医者から、もうだめだと聞かされていた時、私はちょうど九州で公演中で、妻が東京・渋谷の病院に付き添っていた。
開演5分前のベルが鳴っても、私は化粧ができなかった。何かの抜け殻のように、楽屋でぼーっとしたままだった。
すると突然「とんちゃん!」と怒る声が聞こえた。間違いなく母の声だった。しかし、母が楽屋にいるはずがない。慌てて携帯電話を取り、妻に電話すると、妻は「何で分かったの?たった今、亡くなったよ」と言った。
そんな体験をしたのは、その一度きりだった。きっと母は最期に「ちゃんと化粧をして舞台に出なさい!」と言いたかったのだろう。私は、そう解釈している。
大衆演劇役者の梅沢冨美男さん(平成21年11月23日地元紙掲載)