朴念仁の戯言

弁膜症を経て

この世照らす光

早朝の運動を終えて、何気なく頭をグイッと横に捻ったら突然激しい眩暈(めまい)に襲われた。
すぐに治まるだろうと、その場で瞼を閉じてじっとしていると、今度は吐き気を覚え始めた。
吐き気をこらえて目を開けてみると、何もかもが大きく右回りにぐるんぐるんと回っていた。
その内、立っているのもしんどくなり、四つん這いになって硬く瞼を閉じた。
それでも目が回る。
少し様子を見て立ち上がり、壁伝いに歩いて階段に腰掛けた。
治まる様子はない。
尋常ではない身体の異変に救急車を呼ぶかどうか迷う。
弁膜症で息苦しくなって夜中に目が覚めた、その時と同じ切迫感が身を包んだ。
着古した寝間着と、伸びに伸び切った股引きとパンツの見すぼらしい姿で救急車に運ばれるのか。
早朝のサイレンに近所ではちょっとした騒ぎになるだろう。
そんなことを頭の片隅で思いながら電話に目をやった。
どうする?119に電話するか?
そんな自問を繰り返していると、便所のほうから私の名を呼ぶ母の声が聞こえた。
どうした、どうした、と訊ねる声が響く。
それを境に不思議と症状が治まってきた。
なんでもねえ、と答えて立ち上がり、また壁伝いに歩いて茶の間の縁に座った。
この様子では車の運転はまずい。
職場には身体が落ち着いてから行くとして壁時計に目を向けた。
職場に連絡するにはまだ早い時間だ。
炬燵に横になった。
すると、母が便所から出てきて様子を訊ねた。
なんかおかしいと胸騒ぎがしたんだ、と母。
続けて母は、それはメニエールだ、と確信した口ぶりで言った。
大丈夫、様子見ていれば治る、自信に満ちた母の口ぶりに私の弱気な気持ちは振り払われるかのようにふっと消えていった。

ああ、再発したのか。
10数年前にメニエールで一週間ほど入院したことがあった。

当時は血気盛んな頃で、上司であろうと誰構わずの勢いで正論を振りかざして意見した。
正しく猪突猛進の勢いで。
今思えば、正論の本性は、我よし、我かわいさの自己主張だったことがよく分かる。
そんな我(が)の主張が災いしたものか、ストレスからの発症でしばらく入院したほうがいいと医師に言われた。
その時はこれほどの症状は出なかった。

母の確信した口ぶりは自分が体験したからこそのものだった。
当時、20代の母は生後8ヶ月間もない弟を背負い、父の姉の家に向かって歩いていた。
踏切手前で眩暈に襲われ、踏切をどうにか渡り終えると耐え切れずにしゃがみ込んでしまった。
通りすがりの男のドライバーが、どうしたんですか、大丈夫ですか、と駆け寄って声を掛けた。
目が回って立ち上がれないんです…。
母はうずくまったままそう言って、義伯母の家の方向を指差して義伯母の名を伝え、誰か家の者を呼んできてくれるよう男に頼んだ、と、そんな一幕を以前に母が話してくれたことを思い出した。
眩暈はその後も何度も母を襲い、苦しめたという。
人によってはあまりの辛さに仕事もままならず、一日中、横になったままやり過ごすとか、ひどい時は救急車を呼ぶこともあるとは聞いていたが、たかがメニエールとあなどっていた自分がそうなってみて始めてその辛さを思い知った。

母は、幼い3人の子を育て上げなければならないとの強い使命感から一時も気が休まることなく、満足に睡眠時間を取ることもできず、その影響で高血圧気味となり、日々、先の見えない生活に四苦八苦していた。
そんな状況に追い打ちをかけるようにメニエールに襲われた。
実の親も、血の通った姉妹や親戚も近くにおらず、当時、母が頼りとするものは己自身と、幼子の成長する姿だけだった。

親はどんな想いで子を育てるのか。
その深く、大きな愛を、まだ私は知らない。
恐らく一生分かることはないだろう。
それでもこれだけは言える。

母は偉大なり。
母性はこの世照らす光なり。