朴念仁の戯言

弁膜症を経て

最も健康だった薄幸の妹を思う

きょうだい3人のうち最も健康であった妹は、隣町の女学校を卒業すると、その町の委嘱で代用教員になった。やがて正教員の資格を取り、学校の評価も良く、生徒からも慕われる存在になった。

22歳の時、望まれてある男性と結婚したが、初めての子が心臓弁膜症で、背負ったり、寝かせてもおけない弱い子であった。1年ほどで子どもが亡くなると、妹は毎日、泣き暮らしていたそうだ。

妹はやがて肺結核にかかる。薬のない時代、結核は死病であり、妹は27歳で婚家で亡くなった。小康状態にあるとき、私は母のすすめで妹を見舞った。昔の面影はなく、痩せてしまった妹を見て私はびっくりした。

「子どものことばかり思い出しているの」。妹はそう言い、ぜひ泊っていってと言う。しかし、私は転職したばかりで気が焦っていた。また来るからと断って列車の人となった。

後でそのことを知った母が「なぜ泊ってやらなかった。たった一人の妹じゃないか。むごいことを」。そう言って涙をこぼした。母の涙が強く私を責めた。あれから半世紀、母もこの世の人ではない。

会津若松市の宍戸丈夫さん88歳(平成21年10月6日地元朝刊掲載)