朴念仁の戯言

弁膜症を経て

乗り越えたかったのかも

脳溢血で入院中は不思議な感覚だった。

出入り自由って状態だったな。

あっちの世界に。

 

生と死の境

「影のない光」というものにとても興味がある時期があってね。それがちょうど脳溢血で倒れる前だったんだよ。光って、影があるじゃん。チベット仏教の「死者の書」に言う光、浄土の光には、影がないっていうんだよ。すべてがおのずから発光している。ああそういうの一回、見てみたいなあって。

そんなこと考えてると、ライブに行くのにさ、家から京浜東北線に乗って東京に向かう途中で、荒川を越えるんだよね。鉄橋をさ。その鉄橋の骨組みがさ、太陽の光を「バチバチバチバチ」ってさえぎるわけ。明滅がものすごいんだ。その光がね、総天然色でパーっと輝いたことがあったね。一回だけですよ。そんなころに、ブチッと切れたんだ。

不思議だよね。ある意味で生と死の境というものを、どっかで乗り越えようとしていたのかもしれないね。無意識にね。

死についてはわりと若いころから考えてきたんだよ。じいさん、ばあさんが死ぬとか、妹が死ぬとか、犬や猫も死ぬんだけど、これってどういうことなんだろう。考えたって分かんないんだけど、ふと「ああそうか」と。「オレがその死んだやつの分も生きなきゃならん」と思ったんだ。自分が生きればその分、死んだやつも報われるかな、と。

幻想なんだけどね。身内の死を乗り越えるためのペテンかもしれないんだけど、乗り越えなきゃしょうがないから、生きてるほうはさ。でもそうすると、魚飼ったりミジンコ飼ったりしてもさ、魚はミジンコを食う、ミジンコは植物プランクトンなどを食う、そういう命の循環の中に自分がいるということを、実感するようになるんだよね。生の裏側には必ず、死というものがある。

それが一回、間近に来ちゃったんだよな。死にたいってわけじゃないけど、死ぬのはこわくないという状態だったからね、あのころ。オレの場合はそこでパチンといったんだけどさ。

※サックス奏者の坂田明さん(平成21年9月某日地元朝刊掲載)