朴念仁の戯言

弁膜症を経て

家業のパン作り手伝いたい

◆子としての責任

左足を切断してから「幻痛」との闘いが始まった。人は手足を急に失うと今まであった手足の幻覚に見舞われる。ないはずの手や足にかゆみを感じたり、痛みを感じたりするのだ。

先生に訊くと放っておけばいつの間にか消えるというのだが、待ちの姿勢は私が最も嫌うところだ。左足があったところに本を落としてみると、確かに痛い。フォークを突き刺す真似をすると、激痛が走る。火を近づけると熱い。

これらの感覚は心理的なものだというが、自分の体には左足がないことを教え込まないと、短期間で幻痛から解放されない。つまり足を失った現実を、頭と体に覚え込ませなければならないわけだ。

医師はまだ早すぎると難色を示したが、松葉杖を使って立ち上がる練習を始めた。シルバーリッヂでの転倒から3カ月たち、右脚の運動機能は極端に下がっていたが、それでも手術後11日目には松葉杖で歩けるようになった。義足もつけてみた。このような荒療治もすべて幻痛から抜け出すための手段だった。

懸命のリハビリが功を奏し、25歳の誕生日には外泊許可をもらい、自宅で誕生パーティーを開いた。ケーキに立てるろうそく1本にした。足を失ったことを起点に新たな人生が始まると覚悟を決めた。集まってくれた50人の友も分かってくれた。

8月早々、医大病院を退院し、今後どうするかを考え続けた。シルバーリッヂのマネジャーに復帰するのがごく普通な道なのだろうが、片足では満足な仕事はできるはずがない。さらに両親には、私が骨折をしたレストランの営業を続けることに抵抗があった。

結局シルバーリッヂは閉店となり、得意な英語を教えながらで一生食べていくことも考えた。しかし、それでは物足りない。

兄は学者としての道を歩み続けており、家業のパン屋を継ぐことはできない。両親が作り育てたパン屋を一代限りで閉じるのはあまりにも切ない話だ。両親がパン屋をやってくれていなかったら、私はもうこの世に、いることはできなかったはずだ。

こうして1981(昭和56)年10月、両親の前で臆面もなく「家業のパン作りを手伝いたい。親父の仕事を助けて、銀嶺を日本一のパン屋にしたい。それが使命だと思う」と宣言してしまった。

これを聞いた父は実に嬉しそうにほほ笑み、一方、母は戸惑った表情を示した。母はパン作りについて何も知らず、足も不自由な私に務まる仕事は電話番ぐらいしかないだろうと、不安でたまらなかったのだ。

社長の息子だからといっていきなり父の後を継ぎ、デレデレしたのでは従業員に示しがつかない。こうした事情を考え、働いた結果が数字で表れる営業職を希望した。「販売なくして製造なし」を肌で知りたかったからだ。

大卒の初任給が12万円のとき、私がもらった給料は10万円。母に不満をぶつけると、母は「あなたは単独では何もできない。営業にしても車を運転する人が必要だし、納品だって一人ではできない。だから給料も安くなるの」と、決して甘やかしはしなかった。

※銀嶺食品工業社長の大橋雄二さん(平成21年9月1日地元朝刊掲載)