朴念仁の戯言

弁膜症を経て

マイ・ハシしてますか

夕顔咲くうどん屋で

暮れ残る店先の夕顔を横目にうどん屋に入ったら、八割がた埋まっていた店内の空気がほぐれずに何だかとげとげしていた。訳も分からずテレビの前のカウンターに座り、冷やしたぬきうどんを注文する。店員はこわばった顔に苦笑いを浮べている。他の客はうどんをほおばりながら、上目づかいに見るともなくこちらの様子をうかがっているようだ。一体どうしたのだろうと見まわすと、椅子一つへだてて短髪の男がいたわさを肴に一人で冷や酒を飲んでいた。七分袖のダボシャツからむきでた胸から首のつけ根にかけて、大きな痣のようなものが覗く。はっとしてまばたくと、図柄が定かでなく色も褪せ加減であったが、まちがいなく赤紫色の入れ墨であった。店の緊張のもとはどうやら彼らしい。

ダボシャツに彫り物。昔ならそれほど珍しくもないその形(なり)は、今あらためて眼にすると、渡世人と堅気の図示的な分類がよほど徹底してからだろう、確かに違和感がある。といって、この男を暴力団組員と決めつけてよい証拠があるわけでなし、店や客にことさら迷惑をかけているのでもないようだ。入れ墨男はしきりにひとり言を言っていた。「まったくやってられねえよ」だの「なにいってんだい」だの「いやな世の中だねえ」だのと愚痴のたぐいを誰にともなく洩らしている。横顔を盗み見ると、入れ墨の威勢と不釣り合いの、意外なほど柔和な面立ちの初老の人なのであった。もうかなりきこしめしている。そうか老いの繰り言かと安心したら、「ちぇっ、くっだらねえ!」と、今度は罵声が店内すみずみにまで響きわたって、空気が一層こわばった。

男はテレビに向かって悪態をついているらしい。声量は店側がわざわざ警告しなければならないほどには大きくないけれども、耳障りではあり、彫り物とダボシャツというイメージも大いに手伝って〝公序良俗〟に反していると判ぜられる可能性がなくもなかった。しかし、男のいるカウンターには5千円と100円玉が何枚か置いてあり、無銭飲食でないことをこれ見よがしにして、トラブルを回避しようとしているようではある。冷やしたぬきがくる前に、男と一瞬目が合った。「脳溢血かい…」。問うでもからかうでもなく、彼は小声でしんみり言った。冷やしたぬきがきた。麻痺で利き手が使えない私は、酔っ払いのためにやや気が動転したのか、フォークを頼むのを忘れていた。絡まれては面倒なので、割り箸をどうにか割って、左手でうどんを不器用に口に運んだ。「ふん、うめえもんだな…」。入れ墨男がまた小声でつぶやいた。悪い気はしない。

テレビはどこかの自治体が役所をあげて積極的な「エコ」に取り組んでいるという特集をやっていた。酔っ払いはコップ酒をあおりながら、私はうどんを口にしたまま、ぼうっとテレビを見上げた。その役所ではエコ運動の一環として資源節約のために割り箸消費を抑えるべく、〝マイ・ハシ運動〟をやっているのだという。VTRが流れる。昼食中の職員たちに課長だか係長だかが近づいていき、背後から「マイ・ハシしてますか?」「エコしてますか?」と声を掛けては覗き込むようにしている。てっきり冗談かと思ったら、若い男女のキャスターがマイ・ハシ運動が成果を上げ、今ではエコ意識が役所中で高まっている、と真顔で伝えていた。右横から入れ墨男が大声を上げた。「全員バカか、こいつら!」。客らは皆すくみ上がった。

酔っ払いはそれから私に向かい「お客さん、マイ・ハシしてますかあ?」「エコしてますかあ?」と声を掛ける。奥からたまらず店の主人がタオルで手を拭き拭き出てきた。入れ墨男はそれでもしつこく、マイ・ハシしてるか、エコしてるかとふざけた調子で問うのだ。主人が入れ墨男に「ちょっと、ちょっと…」と声を掛けるのと私が右横に答えを返すのが同時であった。左手で割り箸をぐいっと突き出し、勇を鼓して「マイ・ハシしてませーん」「エコしてませーん」と店中に聞こえる声で言ってやった。酔っ払いが爆発的に笑った。客らは何も見えず、聞こえないふりをする。

何かがゆっくりと静かに狂っている。狂いのもとをあかすことができないまま、狂いがますます闌(た)けていく。店を出ると、夕顔が薄闇にさっきよりさらに白く滲んでいた。

※作家の辺見庸さん(平成21年7月10日地元朝刊掲載)