朴念仁の戯言

弁膜症を経て

幸せ望み 別れ告げる

かなわぬ恋(ベトナム

雨が菩提樹の葉を打つなか、彼は傘もささずに一人ベンチに座っていた。「男の人にしては細い肩」にバンは近寄って傘を差し出した。「ありがとう。でも、いいよ」。優しい目。どこか寂しげにも見えた。「特別な何かを持った人と思った」。チャン・ラン・バン(23)が7年前に初めて会ったゴ・スアン・トゥン(26)の印象だった。

月日を重ね、愛を紡ぎあった二人はベトナムの首都に住む。トゥンは孤児の職業訓練を兼ねたバイク修理店の経営者。バンは看護師。ベトナムのどこにでもいそうなカップルだが、二人は愛し合いながら、別れようとしている。

▣7歳の日に母と

トゥンは幼いころ、「歌手」の母と車の中で暮らしていた。7歳のある日、母が泣きながら知らない町に彼を連れて行った。「ここで待ってて」。そう言ったきり、母は戻って来なかった。

独りぼっちになったトゥンは、物乞いをし、靴磨きを覚え、通りで暮らした。公園で読み書きを教えてくれた学生もいたが、他の子たちと盗みもした。

ある日、道端で気を失った。「心臓病で長くないね」。運ばれた病院の医師に言われ、ハノイ郊外の孤児院に送られた。

孤児院には十分な食べ物すらなかったが、支援団体を通じ、韓国女性が手術費を出してくれた。「生き続けられるなら良い行いをします」と神に誓った。バンと出会ったのは手術を終えたばかりのころだった。

バンはトゥンを兄のように慕った。父親が暴力をふるうこと、看護師の勉強をするように言われていることなど、悩みや迷いを打ち明けた。トゥンも自分の境遇すべて話した。トゥンがハノイ職業訓練校、バンが医療学校に入った後も、二人は手書きの手紙を交わし、週末には公園でデートをした。

「かつての自分と同じ境遇の子どもを助けたい」。トゥンは2年前、友人から金を借り、孤児の自立支援のためにバイク修理店を開いた。孤児だけでなく、刑務所を出たばかりの少年も雇った。売り上げを持ち逃げされたこともあったが、店は繁盛していった。

そんなトゥンをバンは自分の両親に紹介した。だが、バンの両親はトゥンが孤児と聞くと冷淡に接した。旧正月には両親の薦めでほかの男性と「お見合い」もさせられた。

親の承諾が得られない恋は、ベトナムではまだ「かなわぬ恋」だ。バンは携帯メールで「さようなら」の言葉をトゥンに送り、トゥンの店に来て言った。「あなたに同情して好きになっただけだった。恨まないで」。何かをこらえるような表情で、彼女はすぐに立ち去った。

自分の命が長くないと思っていたトゥンはもともと「誰かを悲しませるのが嫌だから、結婚はしない」と決めていた。「一人でここまでやってきた。これからもそれを誇りに思って生きよう」。そう自分に言い聞かせ、悲しみをこらえた。

▣一生離れない

しかし、数日もしないうちに彼女はまた店に現れ、涙ながらに言った。

「ごめんなさい。この前の言葉は全部うそ。あなただけを愛している」

「僕は貧乏だし、明日にも死ぬかもしれない」

「わたしが面倒をみる。一生離れない」

トゥンも本当は家族がほしかった。彼女がそこまで言ってくれたことが嬉しかった。意を決し、結納品を持ってバンの家を訪れた。今年初めのことだった。

だがバンの家族は厳しかった。「両親は誰だ」「健康は」。結納品は後日、突き返された。

「どんな素晴らしい人か、家族に分かってもらえるよう努力する」。バンはトゥンにすがって泣いた。しかし、今度はトゥンの方から「君の幸せを望むから」と別れを告げた。

「これからは誰も愛さず、孤児たちだけを助けることだけで生きていく。結婚なんて、僕には過ぎたことだったんだ」。トゥンは最近、心臓の調子が悪く、友人と食事中に二度、気を失った。眠ると「そのまま死ぬのでは」と夜が怖い。「バンの声が聞きたい」。夜中に何度も携帯電話を握る。そのたびに「彼女を忘れなくては」と思いとどまり続けている。

◎発展の裏で孤児増加も

ベトナムは近年、かつてない物質的豊かさの中にある。米国やフランス、中国との長い戦争、国際的な経済制裁を受けた窮乏の時代から一転、株や土地の高騰などで短期間で大金を手にする人が続出した。
だが、労働・傷病軍人・社会事業省によると、発展の裏で孤児も増加。2006年の孤児数は約14万人。貧富の格差拡大や家庭崩壊などが背景にあるといわれる。社会から落ちこぼれて麻薬に溺れ、エイズウイルス(HIV)に感染するなど最底辺で生きる孤児たちも多い。
多くの若者が金持ちになるチャンスをつかもうと懸命な今の社会にあって、トゥンは物質的豊かさに興味を持たない青年だ。
発展から置き去りにされている子供たちが少なくない事実を知っているからか。見捨てられることや顧みられないことのつらさ。トゥンは、自分の経験をほかの孤児たちに重ね合わせ、同じ悲しみの中にいる子どもたちを救いたいと願っている。「あきらめずにやり続ければ、チャンスをくれる人がいることも教えたい」
バンはそんなトゥンを深く愛しながらも、両親もまた裏切ることができずに苦しむ。
「どうして僕の人生は試練ばかりなんだろう」。トゥンはつぶやくが、彼の献身的な活動が地域の人たちの共感を呼びつつあることは、せめてもの救いかもしれない。

共同通信外信部の舟越美夏さん(平成21年7月1日地元朝刊掲載)