朴念仁の戯言

弁膜症を経て

修羅を抜け、命問う

次男自死、妻の破綻…宿命受け止めた 作家 柳田邦男さん

悲しみは真の人生の始まり。肉体は滅んでも魂は生き続ける―。作家の柳田邦男さん(80)は事故や災害、闘病の現場に立ち、命の意味を問い掛けてきた。年齢とともに円熟味を増すその死生観は、57歳で経験した壮絶な体験抜きに語れない。
▣打ちひしがれ
対人恐怖症などに苦しみ自宅に引きこもっていた25歳の次男が、自室のベッドで首にコードを巻き、自死を図ったのは1993年の夏の夜。搬送先の病院で蘇生後、脳死と判定され、臓器提供に至る経緯と家族の葛藤は、95年の労作「犠牲(サクリファイス)」に詳しい。
修羅は続いた。感情の起伏が激しく、抑うつを抱えて入退院を繰り返していた妻の人格が、愛息の死を受け止めきれず破綻の危機に追い込まれた。台所から刃物を持ち出し、首をつるなど問題行動が続発。柳田さんも心労で心身の平衡を失い「妻にも息子にも申し訳ない気持ちでいっぱい。無力感と自責の念が胸をふさぎ、死んで謝りたいと思った」と打ち明ける。
なぜ救えなかったのか…。
答えのない自問を繰り返し、「外のことばかり書かずに、この家の地獄を書けよ」と迫った生前の次男の言葉に打ちひしがれた。命の危機と向き合う苦しみを本当には理解していなかった自分の非力を痛感した。
▣背中を押され
窮地を脱出できたのは「母のおかげ」と柳田さんは言う。敗戦翌年に肺結核で夫を奪われながら、粛々と子育てを全うした母。内職で家計を支え、子どもたちの食べ残しで空腹をしのぐ愛情深い姿が、今も目に焼き付いている。
「宿命を受け入れ、でも諦めない。気が付けば難所を越えている。そんな母の生き方が背中を押してくれた」。止まっていた「物書きの日常」が再始動し、雑誌と新聞で執筆を再開。書くことで内心のカオス(混沌としたさま)から物語を紡ぎ出し、約一年で書籍刊行にこぎ着けた。
「市井(しせい)の人々の肉声を知りたくて」NHK記者となったのは60年のこと。連続航空機事故を検証した初の著書「マッハの恐怖」を出版し独立後は、科学が照らせない人間存在の深みに目を凝らした。中でも急増中だった「がん」をライフワークに設定。医師の日野原重明さんや心理学者の河合隼雄さんとの出会いもあり、死を宿命づけられた患者や家族の内心に迫る「死の臨床の心理学」を志した。「今から思えば、まるで次男の未来を予見していたかのように死の臨床へ導かれていった。これも宿命でしょうか」
▣越えていく
魂の不滅を教えてくれたのも次男だと感じている。人は一人で生きているのではなく、家族や友人、恩師や先人の魂に生かされている。「自力で人生を切り盛りしていると思ったら大間違いです」
だから、どんな悲しみも不幸ではない、と断言する。近視眼的には「負の時間」でも、悲しみがあってこそ、人は生きる意味や他者の恵みに目を向けることができる。「人生に無意味な時間はありません。息子や妻のおかげで僕の人生も豊かになったと思っています」
熟慮の上で妻と籍を分け、現在は新たなパートナーと歩む柳田さん。最近は、絵本を使った出前授業などで子どもと触れ合うのが楽しくて仕方がないと目を細める。「仮設住宅で暮らす被災地の子どもも、絵本を描く時は日頃の悩みを忘れて、すごくいい表情をするんですよ」と喜色満面で言う。人生の山も谷も知り尽した笑顔が輝いた。

「『仕方なかんべさ』『何とかなるべさ』というのが母の口癖でした」(柳田さん)

平成29年1月11日地元朝刊掲載