朴念仁の戯言

弁膜症を経て

会津の持つ精神的風土

随想

やきものと会津の風土を考えた時、まず会津における国宝の文化財をみると、湯川村勝常寺の薬師堂に安置されている薬師如来座像、日光菩薩立像、月光菩薩立像の三体と会津美里町龍興寺(旧会津高田町)の「一字蓮台法華経開結共」があります。このすぐれた仏像が生まれる背景には、慧日寺(磐梯町)を建立した徳一大師の存在が挙げられます。
徳一は、はじめ法相宗興福寺で学び、後に東大寺にも住したといわれ、その後、奥州に移り会津に住しました。徳一の名を歴史上にとどめることになったのは、天台宗最澄との間で5年余り続いた「三一権実論争」です。本質を追求する教養人である徳一が当時、会津に住することで仏像においてもすぐれた仏像を造るために、当代一流の仏師が徳一の目によって選び抜かれたものと思われます。  
さらに、近世においては、1593年、千利休七哲の筆頭といわれた蒲生氏郷公の存在があります。氏郷公が利休の子息の少庵を会津にかくまい、家康との連判により千家再興をはたしたことが、今の千家繁栄の礎になったと思われます。その証しとして少庵ゆかりの茶室麟閣が鶴ヶ城の中にひっそりとたたずんでおります。
会津本郷の陶器は、かつて粗物(そぶつ)と呼ばれた時期があります。本来の意味を調べてみると、侘(わ)び茶の祖である村田珠光(じゅこう)の茶の心得の第一項に、「上を虚(そ)相に下を律義に」という一文があり、「虚相の美」とも言われます。その意味は、表面はかざらず内面を充実させるということです。また、利休が修業時代、師の武野紹鷗(じょうおう)に「わびとは何か」と尋ねたところ、紹鷗いわく「慎み深くおごりなき様」と言われたそうです。利休からわび茶を学んだ氏郷公が会津のやきものにふれた時、虚相の美を備えていたもので「虚物」と評しました。
しかし一つの産地で磁器も焼かれるようになると、磁器に比べ粒子が粗めの土でできた陶器だけ、いつのまにか虚物が粗物に変わってしまったように見受けられます。それに伴い、やきものを見る目も表面的になり、ものの本質を追求する教養人も少なくなっていったように思われます。
今、宗像窯そして会津のやきものを語る時、質実剛健と言われることがよくあります。
古来、山や河、すべて人間の力が及ばないものに神が宿ると言われ、このような大自然の良い気にふれていれば、人間はより謙虚にならなければならないのに、会津においても他の地においてもこの精神が希薄になっているように思われます。大自然に接している会津人の心の中には寛容と慈悲の精神が眠っていると思います。質実剛健と言われる作品を造る上で虚相の美を備えた会津の風土から来る精神が今、とても大事に思えます。

(宗像窯八代目当主の宗像利浩さん)平成20年8月21日地元朝刊掲載