読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

朴念仁の戯言

弁膜症を経て

不都合な他者について

『水の透視画法4』人の海で「愛」を問う

ステージ中央にひとりになった。断崖(だんがい)におきざりにされたように心ぼそい。舞台上のスポットライトをひとつだけのこして、ホールの照度がすべて落とされると、客席はまるで月のない夜の海原である。さっきまでそこにたくさんの人の顔がおぼろげに浮かんでいたのが、いまはおびただしい墓標の列に見えたり、黒い波間から無数の人の眼(め)がこちらを睨(ね)めつけているような気がしたりする。私は講演をはじめようとしていた。しかし、人の海に怖(お)じていたからだろう、のどに最初のことばをつめたまま、それを思いきり発声したものかどうかためらっていた。
ややあって、ことばが口をついてでた。「私たちは〈不都合なもの〉を愛せないのだろうか」。都合のよいものを好きになるのは当然だけれど、世の中にとって有用でないとされ、無価値とされ、邪悪とされる生き物は、ただゴミのように排除すればよいのか。ベルトコンベヤーにのせて刑場にはこべばよいのか。〈不都合なもの〉をおしなべて殺処分にしたり死刑にしたりしていることでなりたっている日常のハーモニーを、なぜめくりかえして見ようとはしないのだろうか。私は自問を声にした。目前の暗い海はそのとき、渦もさざ波もなく、さりとて凪(な)ぐというわけでもなく、まわりの反応をうかがいつつじっと息をひそめているように思われた。講演のテーマは「死刑と日常」である。
じつは年来、胸底にいすわったままのことばがあり、講演が近づくにつれ、それがのどにせりあがってきたのだ。「主よ…本音に気づかされました。私が愛していたのは、他人ではなく、他人のなかの自分を愛していた事実に。主よ、私が自分自身から解放されますように」。マザー・テレサの一節である。私はキリスト者ではない。だが、このことばには打ちのめされた。ことばの重みに堪える魂をそだてずに、漫然とここまで生きてきた。ただ、個々の愛の内実だけでなく、死刑を黙認する心のありようをも、この詩がつよく問うている気がしてならない。〈不都合なもの〉を愛せるか問うたのは、だからである。
愛と優しさをしきりにとなえながらも、そのじつ〈不都合なもの〉を受容しない世間。あいつぐ死刑執行にも見て見ぬふりをして、どこ吹く風と笑いさんざめく日常。そのようなところに、ことばの深い意味で「個」はあるのか。個のないところに愛はあるのだろうか。私は自問をくさぐさ声にしたのだった。イヌやネコの殺処分に怒り涙をながす者たちが、人間の絞首刑に泣きもしないのはどうしてなのか。われわれの内心と国家のあいだには、ひょっとしたら、〈死刑を執行してもあえて言あげしない〉という、無言の約束すなわち「黙契」ができてしまっているのではないか。
ゆったりとたゆたっているかに見えた千人ほどの人の海原に、潮騒ににた気配が生まれていた。それが同感か動揺か判じかねた。委細かまわず私は自身と聴衆に問いつづける。この国にいわゆるsocietyという意味での社会はあるのだろうか。社会という概念は本来、「個の尊厳」を前提するものでなかったか。それは殺人をおかした者の国家による〝抹殺〟をまったく意味しない。けれども、この国には「個の尊厳」という共通意識がうすい。ならば、これは社会というより、元一橋大学長の故阿部謹成氏がとなえたように、日本独特の時空間=「世間」なのであり、個が陥没し、歴史意識のない世間が、死刑制度をささえつづけているのではないだろうか。欧州連合(FU)がとうに死刑制度を廃止し、国連総会も死刑執行の停止を求める決議を採択したのに、日本が応じようとしないのは、もっぱら世間の意を体し、その情緒をあおるマスコミとくにテレビ・メディアにも一因があるのではないか。
死刑執行命令書に署名しつづける鳩山法相は、チョウの研究や無類のイヌ好きで知られ「自然と共生」が信条という。その愛は、しかし、偏頗(へんぱ)な自己愛のようにどこかたわんではいないだろうか。私はいいつのった。人の海原に、反発とも肯定とも驚きともつかぬ重い海なりのようなひびきがひろがっていく。激した胸にマザー・テレサのことばが浮かんだ。「人は不合理で非論理的で利己的です。それでも人を愛しなさい」
それからわずか5日後、4人が絞首刑に処された。講演への返答のように。ふるえる手で本稿をしたためた。
(作家・辺見庸さん)※平成20年4月18日地元朝刊より。