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朴念仁の戯言

弁膜症を経て

男の終い仕度

「もっともっと生きたいように生きるべきではないか」

その言葉通り生きた安藤昇が十六日、肺炎で亡くなった。

やくざから俳優に転身し、晩年は気の向くままの執筆稼業。

やくざ時代全盛時には組員千人を束ね、その中には素手ゴロ最強と謳われた花形敬や、後に作家となった安部譲二らがいた。

俳優時代に共演し、当時、端役だった菅原文太は、安藤との出会いによって銀幕の表舞台に出るようになった。

 

数年前、市内の本屋で、偶々、安藤の本を目にして購入した一冊が手元にある。

買うつもりはなかったが、立ち読みしているうちに興が乗ってしまった。

今日、安藤の死去を知り、「男の終い仕度」をパラパラ捲ってみた。

その中から印象に残った言葉をここに列記して、安藤の数奇な生涯を偲び、冥福の祈りとしたい。

 

●俺の好きな言葉に《ぶらり瓢箪、独りぼち》というのがある。やわらかな日差しを浴びながら、のんきにぶら下がって見える瓢箪も、所詮、独りぼっち。人間も独り生まれ、独り死んでいく。だからこそ世間体だの、健康だの、命だのといったことにとらわれず、もっともっと生きたいように生きるべきではないか。

 

●清廉潔白であることは人間として素晴らしいこと。だけどそれは「自分の生き方」として心すべきものであって、他人に強いたり、部下に求めすぎたりすれば反感を買うということ。対人関係は、ほどよく濁ってみせてちょうどいいんだね。

 

●(どうしようかな)と迷いが生じたら、さっさと見切り、次のステージに進めばよい。見切りとは、こだわりを捨て、迷いを捨て、もっと自由に動きまわることと解釈してもいいだろう。見切らずして新しい人生は始まらない。見切ったからといって、必ずしもハッピーになるとは限らないが、見切れなかったことの後悔よりは、気持ちは楽になると思っている。

 

●見切りが早すぎると二の太刀がくる。遅いと斬られてしまう。早すぎず、遅すぎずが極意で、その目安を、迷いが生じたときと俺は決めているのだ。

 

●《禍福は糾える縄の如し》と言うけれど、なるほど幸と不幸は交互にやってくる。

 

●幸が不幸の原因になり、不幸が幸の原因になるというように、両者は表裏の関係にあるんじゃないか。そんなことを考える。

 

●五十代ともなれば老後が気になり、ムダづかいをしないで貯蓄にまわしたくなるだろう。それはよくわかる。だが、老後を迎えられるかどうかは神のみぞ知ること。長寿だ何だと掛け声こそ威勢がいいが、心身ともに充実した時期はそう長くはない。五十代というのは、競馬で言えば第四コーナーをまわって直線に出てきたところ。ムチを入れるとしたらここしかないのだ。貯金通帳を握って寝たきりになるよりも、存分に人生を謳歌し、楽しかった思い出を懐に寝たきりになったほうが、ずっとずっと幸せだろうと俺は思っている。

 

●借金取りが来れば、鉄舟(山岡鉄舟)は恐縮するどころか、台所で酒を飲みながら、「酒飲めば 何か心の春めきて 借金取りは鶯の声」と高吟する。「困りますよ」と、借金取りが渋い顔をすれば、ますます興に乗って言う。「払うべき 金はなけれど 払いたき 心ばかりに 越ゆるこの暮れ」

 

●《心善渕》を座右の銘にしている。「心は渕なるを善しとす」と読む。これは老子の《上善若水》(上善は水の如し)という詩句の一節で、「川には、流れが止まって静かな渕があるが、人の心もそれとおなじように、波も立たず、鏡のように静かなるをもってよしとする」

 

●余計なことを言って嫌われることはあっても、黙っていて嫌われることはない。人に嫌われたところでどうってことはないが、いい歳になってまで鬱陶しいのは願い下げだ。五十代になったら頑固な自分に気づき、「三猿」になることだ。

 

●どんなに権勢を誇ろうとも、晩節を汚した人間は、石もて追われるという残酷な現実を、金丸(元自民党副総裁の故金丸信)に見るんだ。言い換えれば、男は〝人生の途中経過〟はどうだっていい。晩節こそ大事ということになる。

 

●だが、ただ一つだけ — 口うるさい女だけは、(女房)よしたほうがいい。亭主のやることに、いちいち目くじら立てて四の五の言う女は、区切りのいいところで離婚することを考えたほうがいい。これから平均寿命まで生きるとしたら、二十年も三十年も人生が続くのだ。〝熟年離婚〟は女の特権じゃないのだ。

 

●事難方見丈夫心 雪後始知松柏操

これは、「事(こと)難(かと)うして方(まさ)に見る丈夫の心、雪後に始めて知る松柏(しょうはく)の操」と読む。「男というものは、ふだんのみかけがどうあれ、いざ大変な事がおこったときに、その真価がわかるものだ。松の木は花も咲かず、緑燃える夏場にはこれといってみどころのない木だが、冬を迎え、雪が降り積もってもそれに耐え、青々とした緑色を保っている」

晩年に至ってなお、松柏のごとく、青々とした緑を超然と保っていられるか。男の値打ちは、晩年の処し方で決まるのだ。

 

●人が先、我はあと—。枯れるんじゃない。攻めなのだ。「終い仕度」の基本は、可能な限り、抵抗を減らしつつ、前に進んでいくことなのである。

 

孤独死、結構じゃないか。無縁社会だってかまやしない。堂々と、堂々と、胸を張って、いまこの瞬間を生きていくことこそ、本当の意味で「男の終い仕度」なのだ。