朴念仁の戯言

弁膜症を経て

死ぬということ

野球のユニフォーム姿の写真が新聞に載った。

野球帽の下には穏やかな人柄を思わせる笑顔があった。

それから数十年後、その笑顔の主は新幹線の車中で自らの手で71年の人生の幕を閉じた。

一人の女性を死に追いやったことも知らずに。

 

高齢者の犯罪は以前にはそれほど感じなかったが、ここ最近は万引きや窃盗、傷害、介護疲れによる殺人事件など毎日のように新聞の片隅に載り、矢鱈と目に付くようになった。

街中を歩けば夢遊病者のように、あるいは人間の温かみを感じさせない無機質な眼を持った多くの高齢者に出くわす。

その姿は、見る人の夢も、生きる希望も奪い去るような力で迫り来る。

 

男は、年金減額による生活苦から自殺に至ったと報道された。

人の本質的幸福を求めず、物質に価値置く経済優先の社会にある限り、社会不安は永久に消えることはないだろう。

それに比例するように若年者や高齢者の異常犯罪はますます増えていくことだろう。

 

前回の「ひとり挽歌」は、罪を犯す前兆にある高齢者を想い、また、やがては自分も引き込まれるかも知れない狂気の世界に立ち向かえるようアップしたものだが、実の生活苦を体験したことのない者の上っ面の詩は自分ながらにも読むに値しない。

その辺のしがない歌い手を真似た、ただの言葉遊びだ。

只、覚悟と言うには大袈裟だが、老後、もしも電気や水道、ガスといった生活上の命綱が断ち切られ、喰う物にも事欠く状況に陥った時には、一人餓死して人生を終える、その想いをこの詩には込めたつもりだ。

日一日、痩せ衰えゆく己が身体を冷徹な化学者が観察するように。

そして事切れた屍を丸々と太った蛆が喰い荒らす様を見下ろし、人として死ねたことを、異界では満面の笑みで喜びたい。

自らガソリンを被った身体にライターを翳(かざ)したその一瞬、涙が零れた、私にそんな未練の涙はない。