足の裏的な人
前回の「学歴無用論から」を読み返して、その表現の出元を探ってみた。
〈足の裏のような人〉は、どうやら仏教詩人の坂村真民の詩に起因していたようだ。
自らの考え、自らの言葉と思っていたものは、実はその多くが今は亡き人たちが遺していってくれたものだ。
それが潜在していることに気付かず、独自の考えとして勢い込んで話す。
奥床しい、とは、そのことを知り、自律して謙虚に行動する人を言うのだろう。
時代の経過とともにその知識の上塗りが進み、元々の意味が変わって伝えられているものもある、各宗教のように。
結局は、過去の人たちの生、蓄えられた膨大な知識のお陰で今の生活があるということだ。
「健康も、運命も、心一つの置きどころ」は、意識して中村天風著「運命を拓く」から引用した。
次の古言も心のあり方を示している。
おもしろき 事もなき世を おもしろく すみなすものは こころなりける
晴れてよし 雲りてもよし 不二の山
坂村真民の詩を紹介して閉じたい。
~尊いのは足の裏である~
尊いのは
頭ではなく
手でなく
足の裏である
一生人に知らされず
一生きたない処と接し
黙々として
その務めを果たしてゆく
足の裏が教えるもの
しんみんよ(本人の事)
足の裏的な仕事をし
足の裏的な人間になれ
頭から
光が出る
まだだめだめ
額から
光が出る
まだまだいかん
足の裏から
光が出る
そのような方こそ
本当に偉い人である