朴念仁の戯言

弁膜症を経て

人生

「そうかもしれない」

保健所の植え込みの中で震えて鳴いていた「しろ」を拾ってきてからもう11年になる。 その頃私は気分の落ち込むことの多い日々を送っていた。高校と中学に通っていた息子と娘が、自分たちの生活に意味を見いだせず、生きてゆく気力を失いかけているように見え…

迷い

「迷いに迷った挙句、産みました」かわいい赤ん坊を抱いて報告に来た卒業生の顔には、苦しみを経験した人にのみ見られる明るさと、大人びた表情がありました。 中絶をすすめる周囲からの圧力、産むことによって生じる経済的負担、仕事と育児の両立の難しさ等…

障がいを乗り越え 数学を教えたい

私は統合失調症です。19歳の時に診断されました。でも何とか山形大学理学部数学科を卒業し、特別支援学校の臨時講師や光学プリズムの製造所などに勤務しました。 もう51歳。今は実家の農業を手伝っています。このまま一生を終えてもいいのですが、「男子一生…

人間の愚かさ

連日、世間を騒がせる事件が絶えない。一見して他人事のように思いがちだが、誰も彼もがいついかなる時に被害者、加害者になるか知れたものではない。「何を戯けたことを。誰が加害者になるものか」大方の人間は、言下にそう否定するだろう。そして、内に棲…

死ぬということ 生の輪廻の一つ

孤独死の現場に仕事柄よく立ち会います。アパートの一室で人知れず息を引き取り、死後数週間たって発見されました。初老ともいえない若い男性が多いようです。 ほかのNPOの寮から私の運営する寮へ転入された人が、亡くなる数週間前から昼でも夜中でも「おー…

見習いたい母 背を見て育つ

生きていれば120歳になる母は、20歳過ぎで農家に嫁ぎ、8人の子を育てました。物がない時代、12人の大家族を守っていました。育ち盛りの子どもたちを、決して空腹にはさせませんでした。学校から帰るといつも、囲炉裏に焼きおにぎりがあり、醤油の香りが漂っ…

未来を切り拓く鍵

すでに卒業式も終わり、多くの子供たちや若者たちが母校を巣立っていったことでしょう。震災から二年余り、今年は一人一人がどんな想いを胸に巣立っていったのでしょうか。「旅人の 宿りせむ野に 霜降らば 吾が子羽包(はぐく)め 天(あめ)の鶴(たづ)群…

角隠して嫁入り 家族守り大きく

猪苗代町で生まれ育ち、北塩原に嫁いだ。子どもたちが幼い冬、実家の母と嫁ぎ先の義父が入院した。私は長男に嫁いだ責任がある。心で母を思い、義父の看病に通い続けた。入院から半年、義父が亡くなり、主人が母のところに通わせてくれた。その半年後、実母…

母にささげる「ありがとう」

「禽獣(きんじゅう)は 命をかけて 子を護(まも)る 子に報いよと 言う親はなし」。私の近詠である。私が生まれる前、母は4人の子を亡くした。人手がほしい農家で、夫や姑の手前、どんなにつらかっただろう。両親は私に丈夫と名付けた。私は病気で入院した…

生きること 生かされていること

生命科学によれば、人間に生まれてくることは「一億円の宝くじを百万回連続してあてることよりも難しい」のだそうです。「ありがたい」という言葉は、本来、「有る事、存在すること」自体が難しいので「有り難い」という訳ですが、この意味において、人間で…

歩々是れ道場

今日は5歳の誕生日。おぼろげに目を開けると、まばゆい光の中に私の顔を覗き込む3人の顔が見えた。「あっ!起きた!起きた!目、覚ました!」誰彼となく、声が聞こえた。身動きできない身体が、自分の置かれている状況を私に教えた。その時、思うように動か…

罪深い少年期の行為に贖罪思う

人生の終点において、人は誰でも一生の締めくくりをしなければならない。一生を振り返ったとき、反省のない人は皆無だろうが、私にも決して忘れ得ない思い出がある。一つは戦争の殺戮の場であり、もう一つは少年期の行為である。国家権力による戦争参加は誰…

タロとジロに救われた青春

昭和34年1月15日、私にも「成人の日」が来ていました。若者たちの久しぶりの邂逅は、会場を賑やかにしていましたが、お祝いの言葉が始まると、厳粛な雰囲気に包まれていきました。式の途中で、歴史的なニュースが報じられたのです。司会者が「嬉しいニュース…

新たなスタート №30

2008(平成20)年、私は人生最大の冒険に出た。アメリカ大陸横断だった。21歳の時から、長い闘病生活を送り、多くの人々のおかげで元気になった。ところが元気になってみると、もう「老い」を考えなければならない年齢になっていた。これからどのように生き…

老いの孤独 №27

1991(平成3)年の冬、私と母はこたつで、テレビの中の戦争を見ていた。湾岸戦争が始まってからというもの、現地からの情報がリアルタイムで流されてくる。「見たくない」と、母は言った。「大事なニュースだから」と、私は無視して見続けた。その夜だった。…

会津に生きる №24

熱海で過ごした私の体は、発症当時から比べれば、信じ難いほど元気になっていた。平らなところでなら、車いすを一人で操ることができるし、左の腕も役に立つ。一時は痛みに負けて、手も足もいらないと思ったこともあったが、今は心から切断しなくて良かった…

別れ №22

私が彼と出会ったのは、25歳になった春の、症状の極めて悪い時期だった。彼も入院していた。彼は、間もなく退院していったが、その後も、ほとんど毎日訪ねて来てくれた。来られない時には、定刻の午後8時に、決まって看護婦詰め所の電話が鳴った。いつしか私…

苦しみはずっと続かない

「まず、今の苦しさはあなたのせいじゃないということです。一生分の苦労を先取りしていると思っていいし、あまりにつらいなら、逃げてもかまいません」大平さんはそう話して、自分が14歳だったころを振り返った。学校でいじめられたのを苦に、自殺しようと…

出光佐三店主 №20

出光佐三さんは、社内では会長でも社長でもなく「店主」と呼ばれていた。どんなに大きな企業になろうとも、創業時の気持ちを忘れない、との思いだったと聞く。店主が見舞ってくださったベッドで、私は興奮しきっていた。店主の顔がかすんで見えたり、声が消…

手紙 №19

拝啓 邦子さん私は目が悪いので「この生命ある限り」を、秘書に読ませました。秘書の声音がたえず濁ります。私の目はその都度曇ります。心からご同情いたします。私は主義に生きるため、努めて苦難の道を選び、死に勝る一生を送りました。この苦しみは八十を…

出版 №18

酸素吸入はまだ取れなかったが、だいぶ元気になった風立つ朝、母が私の枕元で言った。「おまえの書いたノートがね、本になるんだって」。父と母への遺書のつもりで書いたノートだった。「良き径」と記したもので、講談社から出版されることが決まったのだ。…

神を呼ぶ №17

私の高校は、旧制の女学校時代の建物を引き継いだ、古い木造平屋の学校だった。ただ、どういうわけか正門前に教会、裏門前にも教会があった。表は日本キリスト教団、裏はカトリック教会だった。県立の学校で、こんなにも教会にぴたりと挟まれた学校は、全国…

洗礼 №16

土曜日、真っ先に私の異常に気付いたのは、同級生の成ちゃんだった。いつもより早く病室を訪ねた彼女は、昏々と眠る私の顔色が普通じゃないと感じた。体を揺すっても、耳元で声を掛けても、反応がない。成ちゃんは、慌てて看護婦詰め所に駆け込んだ。大騒ぎ…

妹の涙 №14

私が倒れた時、妹は高校1年生だった。高校は汽車通学だったので、冬は暗いうちに家を出なければならない。3年間、自分で弁当を作って学校に通っていたと聞いた。かわいそうだった。母はがんの手術を受けた後だったので、無理ができなかった。妹はそれでも明…

生きる意味 №13

人間はなぜ、こんなになってまで、生きていなければならないのだろう。何のために、人間はこの世のなかに生まれてくるのだろう。身動きのできない病室の天井を見つめながら、私は、来る日も来る日も、そのことばかり考えていた。分からなかった。分かるのは…

命を救う熱意に心を動かされる

私は父親を知らずこの世に誕生し、大人たちの偏見と、差別の中で子ども時代を過ごしました。私は国や行政を批判もしませんし、批判する価値がないと、何も期待しないで今まで生きてきました。そんな、私の気持ちを変えたのは、いわき市保健所の獣医さんでし…

縁の糸

これまでの60年間の人生にはあまたの不思議な出会いがあった。縁(えにし)の糸がグルグルと絡み合い、私の人生を紡いできたと思う。その一つに美空ひばりさんをめぐる糸がある。私の父が東山温泉の旅館で板長を務めていた時、当時20歳ぐらいで絶大な人気を…

生の無常を描く

インド・ムンバイを舞台に、貧困の中で運命に翻弄される路上の子どもたちを追い続けたノンフィクション作家石井光太さんの新作「レンタルチャイルド」(新潮社)。スラムの奥深くへ踏み込んだ取材の先にあったのは、「立ち尽くすしかない」現実だったという…

息子の思い出・母の存在

息子を思い出す緑色の歯ブラシ皆さんはどんな歯ブラシを使用していますか。形、色、使いやすさ、好みの硬さ、テレビの宣伝の影響など、さまざまな理由で選ばれているのでしょうね。私の歯ブラシの右側に、これから先、誰にも使われることのない緑色の歯ブラ…

花と私

カーネーション白い花の思い出時には花に慰められたり、勇気をもらったりした。65年前、私が小学生の頃だ。「明日は母の日です。お母さんに赤いカーネーションを一輪あげましょう」と担任の先生が話された。私の母は私を産んだ1年後に病で他界していた。当日…