朴念仁の戯言

弁膜症を経て

老いの行方

「脳に問題があって、もう務めることができません」
電話の相手はいつもと変わらぬ口調で淡々と話した。
町内会の役員も断ったという。
電話の話具合からは脳の障害は少しも感じられないのだが・・・。
自宅の玄関を閉ざし、外部との接触も遮断しているとか。
それほど深刻な症状なのか。

これまでの労に感謝の言葉をお伝えしたが、人生の終末期に向かう彼(か)の人の言葉としては余りに寂しい。
受話器を置くと、彼が今置かれている生活状況と精神状態が思いやられ、暗澹とした気持ちになった。
恐らく免許更新で医師診察となった、その結果ではないのか。

後日、彼の後任を推薦してもらうため、彼が属する町内会の区長の家を訪ねた。
「(彼は)認知症。去年の9月に電話があってもう後任は決めてある」
物腰柔らかく、笑顔絶やさず、好々爺然とした区長だったが、この時は見かけと裏腹なぴしゃりとした物言いだった。
(彼は人間として)もう終わったと、冷やかな宣告のように聞こえた。

以前に区長に抱いた不快な第一印象の訳がこれで分かった。
直感は真実を見抜く。

高齢化が進み、誰も彼もが認知症を発症する時代なのに、明日は我が身とも振り返らず、憐憫の情も持ち合わせず。
因果応報、他者への思いやり欠く態度が情け容赦ない仕打ちとなっていずれ我が身に降りかかるものを。
前科持ちの長男の手に老い先を握られていることを知りながら。

 

アウシュビッツ到着 ①

(もしわれわれが強制収容所においてなされた豊富な自己観察や他者観察、諸経験の総体をまず整理し、大まかな分類をしようと試みるならば、われわれは収容所生活への囚人の心理的反応に三つの段階を区別することができるであろう。すなわち収容所に収容される段階と、本来の収容所生活の段階と、収容所からの釈放乃至(ないし)解放の段階である。)

第一の段階はいわば収容ショックと名づけられるようなものによって特徴づけられている。
しかもわれわれは、心理学的なショック作用が、すでに事情によっては実際の収容より先にあったということをはっきりと想起せざるを得ないのである。
たとえば、私自身がアウシュヴィッツに送られた輸送の場合はどうであったであろうか。
次のようなその様子を想像していただきたい。

1,500名の輸送はすで数日数夜続いていた。
その列車たるや一貨車に80人もの人間がその荷物(彼等の財産の最後の残り)と共にうずくまっているのであり、積み上げられたリュックサックや袋で窓の一番上の部分だけが残っており、そこから薄暗い暁の空を見上げることができた。
すべての人々は、この輸送はどこかの軍需工場に行き、われわれはそこで強制労働者として使われるであろうという意見であった。
そして列車は今やあるひらけた平地にとまりつつあるかのようであった。
一体、今われわれがシレジアにいるのかポーランドにいるのか誰も知らなかった。
機関車の鋭い汽笛が薄気味悪く響き、それはさながら大きな災厄に向かって引かれていく人間の群の化身として、不幸を感づいて救いの叫びをあげているかのようであった。
そして列車はいまや、明らかに、かなり大きな停車場にすべりこみ始めた。
貨車の中で不安に待っている人々の群の中から突然一つの叫びがあがった。
「ここに立札がある——アウシュヴィッツだ!」
各人は、この瞬間、どんなに心臓が停まるかを感ぜざるを得なかった。
アウシュヴィッツは一つの概念だった。
すなわちはっきりとはわからないけれども、しかしそれだけに一層恐ろしいガスかまど、火葬場、集団殺害などの観念の総体なのだった!
列車はためらうかのように次第にその進行をゆるめていった。
すなわちあたかもそれが運んできた不幸な人間の積荷を徐々にかつなだめつつ「アウシュヴィッツ」という事実の前に立たせようとするかのようであった。
今やすでに一層色々なものが見えてきた。
次第に明るくなる暁の光の中に、右も左も数㎞にわたって、恐ろしく大規模な収容所の輪郭が浮かび上がってきた。
幾重もの限りない鉄条網の垣、見張塔、探照燈、それに暁の灰色の中を灰色に、ノロノロと疲れてよろめきながら、荒れはてた真直ぐな収容所の道を行くぼろをまとった人間の長い列——誰もどこへ行くのか知らないのだ。
そして短い号令の笛があちこちできこえる——誰も何のためだか知らないのだ。
すでに我々のうちの何人かは驚愕した顔をしていた。
たとえば私は一対の絞首台とそれに吊り下げられた者とが目に入った。
私はぞっとした。
しかしそれどころではなかったのだ。
すなわちわれわれは一秒毎に一歩一歩恐ろしい戦慄の中に導かれなければならなかったのだ。

 

※ヴィクトール・エミール・フランクル著「夜と霧」より

「夜と霧」出版社の序

1931年の日本の満州侵略に始まる現代史の潮流を省みるとき、人間であることを恥じずにはおれないような二つの出来事の印象が強烈である。
それは戦争との関連において起った事件ではあるが、戦争そのものにおいてではなく、むしろ国家の内政と国民性とにより深いつながりがあると思われる。
さらに根本的には人間性の本質についての深刻な反省を強いるものである。

第一には1937年に起った南京事件であって、これは日本の軍隊が南京占領後、無辜(むこ)の市民に対して掠奪・放火・拷問・強姦などの結果、約20万人と推定される殺人を行った。
これは当時の目撃者や医師・教授・牧師たちによる国際委員会によって報告書が作製されており、さらに極東国際軍事裁判においても広汎(こうはん)に資料が蒐集(しゅうしゅう)されたが、手近(てぢか)には林語堂(りんごどう)「嵐の中の木の葉」やエドガー・スノー「アジアの戦争」などの中にもヴィヴィッドに描写されている。

第二には1940年より1945年に至るナチズム哲学の具体的表現ともいうべき強制収容所の組織的集団虐殺である。
これは原始的衝動とか一時性の興奮によるものでなく、むしろ冷静慎重な計算に基づく組織・能率・計画がナチズムの国家権力の手足となって、その悪魔的な非人間性をいかんなく発揮した。
「近代的マスプロ工業が、人間を垂直に歩く動物から1㎏の灰にしてしまう事業に動員された。」(スノー)
アウシュヴィッツ収容所だけで、300万人の人命が絶たれ、総計すれば600万人に達するといわれる。

いまだ人類の歴史において、かくの如き悪の組織化は存在しなかった。
その規模においてかくも周到厖大な結末を示したものはなかった。
かくてこれは、人類史において劃期(かっき)的な事件として永久に人間の記憶に残るであろうことは疑えない。

ここに読者に提供するのは、自らユダヤ人としてアウシュヴィッツ収容所に囚われ、奇蹟的に生還しえたフランクル教授の「強制収容所における一心理学者の体験」であるが、これは著者も自ら言われる通り限界状況における人間の姿を理解しようとするもので、その深い人間知から滲み出る叙述の調子の高さは、現実の悲惨を救うせめてものよすがであろう。
しかし我が国の読者のためには、強制収容所についての一般的記述で客観的なものが予備的に望ましく思われたので、解説および写真によってこれを補うことにした。
おそらく読むに巻を措き、見るに耐えないページもあることだろう。

我々がこの編集に当って痛切だったのは、かかる悲惨を知る必要があるのだろうか? という問いである。
しかし事態の客観的理解への要請が、これに答えた。
自己反省を持つ人にあっては「知ることは超えることである」ということを信じたい。
そして、ふたたびかかる悲劇への道を、我々の日常の政治的決意の表現によって、閉ざさねばならないと思う。

  1956年8月
                       出版社(みすず書房

 

ひとりで死んでも「幸せな人」だった

私は一度だけしんちゃんに会ったことがあります。
祖母を亡くした葬儀の時です。
私が満4歳を目前にしていた時ですが、わりとよくその時の情景を覚えています。
当時、私と両親は大阪に住んでいました。
祖母は祖父、長女、次女とともに4人で富山県に住んでいて、心臓病でほとんど寝たきりの状態が続いていたのです。
私は母に連れられて大阪から何度も見舞いに行っています。

ある時、祖父が祖母の寝ている部屋に行ってみたら亡くなっていたそうです。
同居家族はみんな家の中にいたのに、最期はひとりで旅立って行くことになりました。
私の名前の滋子の滋は、祖母からもらったそうですから、私の父や母も彼女を敬愛していたようです。

「おばあちゃまよ」と導かれた部屋に布団が敷かれていて、そこに祖母が横たわっています。
子ども心にも非常に穏やかな表情を浮かべているように感じました。
が、いつもなら「こっちにおいで」と言ってくれるはずなのに黙っています。
なぜか私はいつも「なんこちゃん」と呼ばれていたのですが、その優しい呼び声が聞こえません。
抱きつけば必ず迎え入れてくれた祖母がまったく動かないのです。
手をさわると恐ろしく冷たかったことを覚えています。

死というものに初めて触れた感覚でした。
「もう会えないな」と思えました。
すごく悲しくなって、涙が次から次へと出てきます。
その時、私は人が死ぬということを初めて意識したようです。
泣きべそをかいている私に、あまり背の高くない、か細い男の人が「なんこちゃん、おいで。あっちでお菓子食べよう」と声をかけてくれたのです。
それがしんちゃんでした。
そっと隣の部屋に連れて行ってくれて、こう話しました。
「大丈夫だからね。おばあちゃんは死んでしまったけど、苦しくないんだよ。今まで苦しかったけど楽になったんだよ」
そして飴やおせんべいをくれると、お通夜の間ずっと私を膝の上に抱いていてくれたのでした。
「とても優しいおじさんだったな」というのが、私がたった一回しんちゃんとじかに会った時の印象です。
葬式の後、しんちゃんは再びどこへ行ったか分からなくなったということでした。

私が中学生の頃、しんちゃんは一度だけ私の家にやって来たことがあるそうです。
簡易宿泊所に寝泊まりしながら日雇い生活をしていて、お金に困った様子だったといいます。
この時は母から、「まともな職にも就かずに、何しているんだ!」と怒鳴られて帰って行ったとのことです。
このことは後になって母から聞かされました。
「まるでフーテンの寅さんみたいな人だな」と思ったことを覚えています。

ある日警察から母に電話がかかってきます。
「山本信昌という人を知っていますか?」
「弟ですが……」
「今病院に収容されました。意識が戻らないので、確認しに来てください」
その一カ月くらい前に、千葉県西部の街にある図書館の入り口で叔父は倒れていたとのこと。
おそらくその付近に住んでいたのでしょう。
いくつかの病院を転々と回され、最終的に東京都墨田区の病院に搬送されてきました。
病院に駆けつけた母は、ベッドに横たわる男性を見てすぐに「確かに私どもの弟です」と確認できたそうです。
とはいえ、呼びかけても、話ができる状態ではありません。
身元不明だった人物にあまり積極的治療が施されることもなく、点滴による栄養補給が行われ、尿の管(膀胱留置カテーテルカテーテルの先に風船が付いており、これを膨らませることによって抜けないようにしてあるため、バルーンカテーテルとも呼ばれています)が入れられていました。
医師からは「非常に厳しい状況ですので、今日明日には命が尽きる可能性はあります」と告げられました。
「何やってるの、あんた!」
母はしんちゃんの手を握り、体を揺さぶります。
しんちゃんはそれに反応してわずかに体を動かしました。
相手が姉だと分かったのかもしれません。
しかし、母には富山に一家の主婦としての仕事が待っているので、すぐに引き返さなければなりませんでした。
「これが最後かもしれない」と思いながら、主治医に「積極的な延命治療は望みません。できるだけ苦しまないように旅立てばそれが弟の本望だと思いますから」と告げてきたそうです。

七日後、病院から「今亡くなったので来てください」と連絡を受けました。
母はまた東京に出かけます。
病院で安らかな顔で眠っている弟の亡骸(なきがら)を目の前にしました。
しんちゃんはお骨にしてもらって、実家の山本家のお墓に入れることになります。
その時、身内の数人だけが集まりました。
そして、しんちゃんを哀れむ言葉を語り合ったのです。
「若くして定職を捨て放浪生活に入り……」
「明日のあてもない日雇い暮らしで……」
「家族も持たず、ずっとひとりきりで過ごし……」
「たったひとりで寂しく死んでいって……」

納骨が終わると、きょうだいたちはしんちゃんがお世話になった図書館にお礼に出かけたのでした。
ところが、そこでしんちゃんのまったく知らなかった一面を知らされることになるのです。
「先日ここで倒れて、救急車を呼んでいただいた者の身内の者ですが……」
「ああ、あの方はよく覚えていますよ。ほとんど毎日見えていましたから」
「毎日ですか?」
「ええ、そうですねえ、仕事の空き時間に朝から見えることもあれば、午後になってからのこともあり、その都度何時間かはお過ごしでした。ここで本を読んで、借りて帰られることもあったのですが、延滞することもなくきちんと返しておられました。古典の原文などを読んでおられましたよ。難しい本を随分集中して読んでいるなと思って感心していたほどです。来館の時と帰る時は必ず私どもに挨拶をされていました。『本当に本が大好きな人なんだ』と話していたんですよ」
「じつは、あの後亡くなりました」
「そうですか……。残念ですね。でも、それはそれでお幸せな最期ですね」
「えっ?」
「毎日自分の好きな本をここで倒れる数時間前まで読まれていたんですからね。いくら本好きでも、そこまでできる人は滅多にいません。私たちだって本が好きでこの仕事を選んだわけですが、そんなに本を読みふける時間はとても取れませんよ。しかも弟さんは、最期は大好きな本が集まった図書館の前で倒れられたわけです。好きなことだけに熱中できたわけですから、羨ましい気さえしますよ」

その時初めて、きょうだいたちの中でしんちゃんの「哀れな死」「惨めな死」のイメージが、「幸福な生涯」に変わる大転換が起こりました。
しんちゃんは小さい時から本が好きで、父親の「男たるもの」という概念から外れていたために常に″要らない物″扱いされてきました。
大学で文学を学びたくても叶わなかったけれど、その憧れを最後まで捨てずにずっと夢として持っていました。
最終的には行き倒れ同然でしたが、倒れる間際まで好きなことをしていたのです。
その時、きょうだいたちの胸には、「どうして父親はこの個性を認めてやれなかったのだろう」という思いが再び出てきました。
時代が違えば、父親から勘当されることもなく、文学の道を歩んでいたかもしれないのに、戦争、敗戦という時代がそれを許しませんでした。
しんちゃんの「哀れ」「惨め」「恥ずかしい」というイメージは、亡き父親から与えられただけのものだったのかもしれません。
たったひとりで倒れて逝ってしまったけど、そばにはきっと誰かが寄り添っていて、決して寂しいわけではありませんでした。

人は誰でもいつどこで死ぬかわかりません。
その時、その人は「本当に好きなことをしてきた」ということが言えるものでしょうか。
しんちゃんは確かにそれを持っていたということが想像できます。
ある意味でそれは図書館の人たちが言っていたように「羨ましいこと」なのではないでしょうか。


※緩和ケア医・おひとりさま応援医の奥野滋子さん「ひとりで死ぬのだって大丈夫」(朝日新聞出版)より

 

不運続きだった「本の虫」

しんちゃんは山本信昌(のぶまさ)という名前でした。
信昌の信の文字から家族は「しんちゃん」と呼んでいました。
母は男二人女三人の五人きょうだいの下から二番目。
しんちゃんは末っ子です。
私が大学生だった頃しんちゃんは52歳で亡くなっています。

第二次世界大戦中、母がたの祖父は逓信省(ていしんしょう)(現総務省日本郵政、NTT)勤めのお役人でした。
当時日本の領土であった韓国の京城(けいじょう)の役所(現在のソウル特別市庁)に赴任しており、一家はここで生活をしていたのです。
きょうだいの長兄は当時大学生でスポーツ万能の非常に男らしい人だったようです。
将来の一家を背負って立つという気概にあふれ、友だちも多くて人望が厚い人だったと聞いています。
それにひきかえ、その頃現地の日本人国民学校初等科(現小学校)に通っていたしんちゃんは、小さい頃から泥んこ遊びなど見向きもせず、いつも部屋の中で本を読んでいるという子でした。
将来は大学で文学を学んで、文学者になりたいと言っていたそうです。
祖父は昔気質(かたぎ)のいわゆる頑固おやじで、こんなしんちゃんを白い目で見ていたといいます。
ところが、一家を支えることになるはずだった長男がある時突然高熱を発し、激しい腹痛を訴えて何も食べられなくなったかと思うと、あっという間に亡くなりました。
何かの感染症に罹(かか)ったのでしょうか。
これを機に一家の苦難が始まります。

やがて敗戦を迎えました。
一家は財産を何もかも失い、引揚者となって京城を離れ丸裸同然で命からがら、船で博多港までたどり着きました。
ところが、祖父の故郷の富山に帰ると町は焼け野原になってしまっていて、空襲で実家も何もかもが全部失われていました。
当時私の母は14歳、しんちゃんは11歳という年齢です。
辛酸を極めたような一家の生活が始まりました。
そのなかでようやく親戚の家に身を寄せることができ、馬の世話やら農作業を手伝うなどの仕事でどうにか一家は糊口(ここう)をしのぐことができるようになります。
が、家族みんなが苦労を重ねるなかでも、しんちゃんは文学を学びたいという希望を捨てることができませんでした。
野良仕事をするより本を読む時間をとても大事にし、どこからか小難しい古本を貰ってきては、ちょっとした仕事の合間でも読みふけるという生活だったのです。
そんなしんちゃんに対して祖父は怒って「男は家族のために働くものだ」「お前は能なしだ」と罵倒するなど、かなりぶつかり合ったようです。
しんちゃんは「大学へ進学して文学を勉強したい」という夢がありましたが、とてもそんなことが叶えられるわけもなく、20歳近くになってようやくある工場で働き口を見つけたのでした。
そんな時しんちゃんに縁談が舞い込みます。
安定した生活を送るための目途が立ったということなのでしょう。
実家を出て、夫婦二人だけの借家での暮らしが始まりました。
しんちゃんは、しばしの幸福な時間を迎えることができたのかもしれません。
しかし、その幸福は一年間も続きませんでした。
ある日またしんちゃんに悲劇が起こったのです。

勤め先の工場が近いので、しんちゃんは一時間のお昼休みに昼食をとるために毎日自宅まで戻り、食後はいつも読書をしていたといいます。
筋金入りの読書の虫だったようです。
ある冬の日に、昼食を終えて職場に戻ると、「家が燃えている」という連絡が入りました。
しんちゃんはこたつに火を入れてそのまま消し忘れたようです。
新婚家庭は何もかも焼失してしまいました。

借家を燃やしてしまったのですから、当然賠償責任が発生します。
自分に負担がかかることを恐れたのか、新妻はしんちゃんのもとを逃げ出してしまいました。
こうして再びしんちゃんは実家に戻ることになりましたが、相変わらず本にかじりついていて、文学を学びたいという思いが募っていくばかりでした。
ついに祖父と大げんかになります。
「お前みたいな奴は男ではない。男はもっと家族のために働くものだ。文学なんかで稼げるとでも思っているのか。勘当だ。出て行け!」

こうしてしんちゃんは家を出ていきました。

 

※緩和ケア医・おひとりさま応援医の奥野滋子さん「ひとりで死ぬのだって大丈夫」(朝日新聞出版)より

 

無駄な時間なし

前日、めったにひかない風邪で学校を休んだ。
何かを予感していたのかと、今何となく思う。

あの日が家族や友人、大切な人と穏やかな日常を過ごせる最後の日になった人たちがいる。
問い掛けたところで、返事は永遠に返ってこない。

どこにいるのかいまだに不明、身寄りのない仮設住宅での生活、東京電力福島第一原発事故からの避難による離散・・・。
惨劇の前日までは変わりない平穏な毎日があった。
ホッとする町があった。
頼れる地域の人がいた。
友がいた。
家族がいた。

時が立つことは世の中も変わること。
物が変わり、人も変わる。
しかし変わることが全てではない。
変わらないことだって、人生にあっていい。

ずっと海を眺めていたければ日が暮れるまで思う存分、眺めればいい。
色のないモノクロ写真の中にいたければ大きく深呼吸できるまで額縁の中に入っていればいい。
そこで費やす時間には、一つも無駄なものはない。


仙台市吉田有希さん19歳(平成31年3月25日地元紙掲載)

 

悲しみ癒えることなく

「あのときの息子の体の冷たさ、それが原点です」
全国自死遺族連絡会の代表理事田中幸子(70)の長男健一は2005年11月、34歳の若さで自らの命を絶った。
当時、宮城県警塩釜署の交通係長。
連絡を受けて仙台市の自宅から署の官舎に駆けつけ「体に触ると氷よりも冷たかった」。
自分の血と入れ替えれば、体が温まって息子がかえってくるんじゃないか。
本気でそう思った。

その春、塩釜署に異動した。
直後に高校生ら18人が死傷する交通事故が起きる。
交通の仕事は初めてだったが、上司は支え励ますどころか「暴言」さえ吐いた。
他の仕事も積み上がり「真面目な子なので全部抱え込んだ」。

4カ月半、一日も休まず働き、疲れ果てて療養に入る。
夫婦仲が悪くなり妻は実家に帰った。

▶恨み
死の直後に兄の携帯メールの記録を見た4歳下の次男が「これじゃあ、お兄ちゃん死ぬよ」とつぶやいた。
追い込まれていく跡が示されていた。
受診した精神科医にも心ない言葉を浴びせられたと生前、聞いていた。
警察にも不信感が募った。
親族への連絡の前に家中を捜索したようだった。
着いた時、息子は着替えさせられ、布団に寝かされていた。
遺書もなかったと言われた。

田中は人を恨み、救えなかった自分を責め、やり場のない怒りで暴れた。
何度も昏倒(こんとう)した。
次男は母の死を恐れた。
トイレでも風呂でも、ドアの前に立ち「大丈夫?」と声をかけてきた。

死にたかったが死ねなかった。
カウンセリングを受け、僧侶の話を聞き、占いを回った。
助けになりそうな本を次々読んだ。
仏壇の前で泣いていると次男に言われた。
「僕が死んでもそんなに悲しんでくれる? お兄ちゃんみたいな優秀な人間が死んで、僕みたいな駄目なのが残ってごめんね」
はっとした。
支えてくれている次男を忘れていた。
それからは笑顔を取り戻そうと努めた。

大切な人を亡くした同じ思いの遺族に会いたい。
次男が探してくれた福島市の会に出かける。
初めて胸の内を打ち明け、少し楽になった。
だが仙台にはそんな会はなかった。
「誰か作ってほしい、私を助けてほしい」
あちこちに要望したが、動かない。
「だったら自分で作るしかない」

▶藍の会
健一の自死から8カ月後「藍(あい)の会」を始める。
藍は警察官の制服の色。
息子は仕事に誇りを持っていた。
いつも息子と共にという思いを込めた。
電話番号を公開し、24時間いつでも遺族の電話をとる。
「私自身が今でも夜や明け方に悲しくなって思い惑う。そんな時間に支援機関は電話に出てくれないから」

各地の遺族の会の立ち上げも応援し、08年には全国連絡会を組織する。
地元では遺族が語り合う「わかちあいのつどい」、それを卒業した人の「茶話会」、サポーターも交えたサロンも開く。

遺族には柔らかな笑みを絶やさない。
後追いだけはさせないという強い意志が、その奥にある。
活動の中で直面したのは、自死した人と遺族への差別や偏見だ。
例えば行政の担当者や支援組織から「自殺は貧困や無知が原因」という発言が頻出する。
自死者は「人生の敗北者」であり、遺族は「敗北者の家族」とみなされる。
政府の自殺総合対策大綱は「多くが追い込まれた末の死である。(略)さまざまな社会的要因がある」としているのに。

支援団体は各地の集会で「泣く家族」の登壇を求め、多くの遺族が壇上で号泣したこともあった。
田中は批判する。
「遺族は運動の道具にされた。こんなかわいそうな人を出さないために自死を減らそうと。哀れむべき存在だという差別感を強めました」

▶提案
田中はこうしたスティグマ(社会的烙印=らくいん=)と徹底的に闘う。
「自殺」を「自死」に言い換えるという提案もその一つだ。
「自らを殺す」という自殺は「自由意思で実行した身勝手な行為」という偏見を生む。
提案は実を結び、宮城、鳥取島根県仙台市などが公文書で「自死」に切り替えた。

賃貸物件の賠償請求もスティグマに起因する。
「けがれた死という烙印です。家賃減額分や改修費用で何百万、アパートの建て替え費用として一億円以上請求された例もあります。泣く暇も与えず火葬場まで来る」
法律家や医師らと「自死遺族等の権利保護研究会」を作って法的問題を検討し、遺族と支援者のための手引書も作成した。

「優しい人が優しいままに生きられる社会に」
そう願って走り続けてきた。

田中自身の悲しみは癒えたのだろうか。
「私は幸せになることを望んでいません。悲しみはそのまま。回復するとすれば息子を生き返らせてもらうことだけれど、それはできない」
いったん言葉を切った。

「親として助けられなかった。息子が生きていた頃のような青い空は見えない」


※文・佐々木央さん(平成31年3月23日地元紙「ときを結ぶ」より)