朴念仁の戯言

弁膜症を経て

新元号公表の日に

お前は、虚飾の装いで己を誤魔化し、他人の目を気にするケツ穴すぼまった男
お前は、職場への不平不満を時折まくし立て、苛立ちを募らせる負け犬
間抜けな薄ら笑いを止めろ

お前は、自己本位の価値観を棚に上げ、他人を下位に評価する偽善者
お前は、他人の粗(あら)を見過ごさず、自分の粗を見過ごすうつけ者
お前は、己を客観視せずして自己能力を過大評価し、社会的地位を要求する駄々っ子
野卑た愛想笑いを止めろ

お前は、内部告発によって欲望にまみれた薄汚い真実の顔をさらけだした独裁者
お前は、のらりくらりと訳の分からぬ答弁を繰り返して国民をあざむき、日本を好戦国家に仕立てようとするテロ政治家
お前は、わが子を虐待死せしめた父親
お前は、躾とうそぶいて老犬を蹴り倒す女
お前は、重度の障がい者を不幸の元として殺戮した元介護従事者
お前は、社会的孤立感から自暴自棄になって無差別殺人を犯した住所不定の無職者
お前は、猟奇的殺人を繰り返した性的倒錯者

そして、お前は死んだ兵士の肉を喰らい、無抵抗の人間を銃剣で刺し殺し、年端も行かぬ少女や老婆までも凌辱し、帰還後、都合の悪いことは口を閉ざして天寿を全うした元日本兵

お前は己、己はお前
善人面するな、この痴れ者が

 

人、生まれながらにして善悪なく、その時代、社会、環境によって善人、悪人に仕立て上げられる。
その社会、環境は、特定の誰か別の人間が作ったものではない。
その時に生きているお前一人一人の集合体が作り上げたのだ。

 

大石順教尼を偲びて ー人間、このかけたるものー㉒

「それで先生は、いつも明るく生きてゆけるのですか」
「私のいう″心の生き方″というのは、手のない人は、み仏の手をいただき、眼のない人は心の眼を開かなければならないのだよ。そして足の不自由な人は感謝の心でしっかりと大地を踏まなくてはならないのだよ。そうしなければ私たちの救われる道はないのだよ」
「私にはとても難しい道だな」
「そんなことはありません。身体の不自由、これはね、そういう因縁なのだから仕方がないが、私たちは″心の障害者″になってはいけないのだよ」
「″心の障害者″? そんな障害があるのですか」
「あんたね、片足が悪いだけでよく転ぶでしょう。どうしてかわかりますか」
「わかりませんが、悲しいです」
「転ばなくても歩ける方法を教えてあげよう。それはね、悪い足を隠さないことだよ」

はっとして、娘は順教尼の言葉を待った。
「″心の障害″というのはそれを言うのだよ。忘れなさいということは無理かもしれないが、片足が悪いくらいのことに心を奪われてはいけないのだよ」
「どうしたら、その″心の障害″を取り除くことができるのですか」
「自分のことは自分でできるようにするという、それだけの小さな生き方でなしに、世の中のために感謝と奉仕の心を持って″心の働き″を生かすのだよ。たとえ、何にもできずにベッドに臥(ふ)せっていても、微笑(ほほえみ)ひとつでも、優しい言葉ひとつでも、周囲の人々に捧げることができたら、その人は社会の一隅を明るくすることができるのだよ」
「先生、私は何にもできない人間だと思っていましたが、気持が明るくなりました」
「その明るさが大切なのだよ。私はね、少し言い過ぎになるかもしれないが、障害というのは身体の自由、不自由とは別ではないかと思うことさえあるのだよ。たとえ健全な肢体に恵まれていても、それを人のために生かす心を持たずに、五欲のほしいままに、お互いが傷つけ合うことしかしらないとしたら、大変な″心の障害者″ではないかと思うのだよ」
「心はみんな同じなのですね」
「この頃、力みでも、強がりでもなく、私は両手を無くしたこと、何も知らない無学な者であったこと、そして、お金に頼らずに貧乏してきたことが、ほんとうに私の眼に見えない大きな財産なのではないかと、しみじみとそのしあわせを味わっているのだよ」
「先生、もう少し分かりやすく教えてください」
「そうね。生きてゆくための、幸福になるための、条件とか資格とかいうものは、何一つないのだ、とでも言ったら分かるかい。禍も福もほんとうは一つなのだよ」
「先生、何だか体中の凝りが全部とれたように、すがすがしい思いがします。ありがとうございました」

身体障害者の大いなる母として、またその障害の弱さを通して得られた順教尼の、”無手自在″なる活路は、多くの人々に目に見えぬ大きな遺産をのこして、昭和43年4月21日午前零時20分、静かな花が大地に還るように81歳をもって逝去されたのである。
前日の夕方まで訪れる障害者のために常と変わらぬ元気さで尽くされた老尼は、珍しく疲労を訴えられ、横になられたままその後一言も口を開くことなく、日頃信慕する弘法大師の入寂と日時を同じくして、み仏の慈手に抱かれ、この世を去られたのである。

人間的な苦しみも、病いも、悲しみも、老いの匂いもなく、寂(しず)かに永眠されたこうした往生の姿を何と表現したらよいのだろうか。
心持ち微笑さえ浮かべ、枕辺にお別れをする有縁(うえん)の方々に語りかけるように眠る老尼の温容からは、生き死にを超えた涅槃入寂の荘厳さをしみじみと思わされたのであった。
人間としての弱さの辛苦を舐め尽くされた老尼であったが、それはひとりの身体障害者として開かれた献身の一生としてでなく、人間—―このかけたるもの—―の真実の味わいを証しされた、尊い示寂(じじゃく)ではなかったかと思うのである。
願わくば慈手観音として、私たちの上に遍照くださらんことを念じつつ筆を擱(お)きます。

※順教尼一周年忌にあたり京都山科・一燈園において 石川洋さん(昭和44年4月21日)

 

大石順教尼を偲びて ー人間、このかけたるものー㉑

「先生、お背中流しましょうか」
「ありがとう、お願いしますよ」
緑蔭に包まれた仏光院の昏(く)れは早い。

「おや、垣根に、夕顔の花が……」
浴場の片隅に置かれたタライ湯の中で、順教尼は足の不自由な塾生を相手に、夏の夕暮れの風情(ふぜい)を楽しんでいるのである。

「先生、あの、お尋ねしたいことがあるのですが」
「ああ、いいよ」
「どうして先生は、湯舟に入る前にタライの中で入浴されるのですか」
「……」
「前から一度お聞きしたいと思っていたですが、いけなかったのでしょうか」
「いいえ、悪いことなどありませんよ」
「……」
「聞こえるかい、虫が鳴いているんだね」
草むらの深みから、ところを得て鳴く虫の声が、順教尼には痛いほど心にしみた。
「あ! 先生、涙が——。泣いているのですか」
「勿体ないと思ってね。こうして夕顔の花を見、虫のすだく声を聞きながら風呂につかっていることが、たまらなく勿体ないのだよ」
「タライに入りながら、どうしてそんなに勿体ないのですか」
「そう、あなたには、まだ話さなかったね」

——それは17歳の初夏の頃であった。
思わぬ不祥事に遭難した順教尼こと妻吉が、無惨にも両手を失い悶々たる日を送っていた頃である。
母親に連れられて風呂屋に行くと、物見高い人々の眼が妻吉の肢体に集中されるのであった。
ある日、風呂屋の主人は、
「妻吉さん、あんたの風呂銭はいらないよ」
「へえ、またどうしてですか」
「あんたが風呂に来てくれるとね、たくさんの人が入って来るので繁昌するんだ」
と言うのである。
妻吉の悲しみもさることながら、母親の心はどれほどの辛苦を味わったことだろう。
それ以来、母親は季節を問わず、家の中で妻吉にタライ湯につかわしてくれるのであった。

「私にはその頃の母親の悲しみと、情の深さが忘れられないのだよ」
「だから先生は、そのお母さんの心を忘れないように、タライ湯をつかってから、最後に湯舟に入ることにしているのですか」
「皆さんの温かい真心で生かされていることに、もしも馴れるようなことがあったら大変ですからね。こうしてタライの中に身を置いて、慎(つつし)みたいと思っているのだよ」
「先生、わかりました。私は両手が使えるのに片足がこんなに萎えているものだから、つい見かねて荷物などを持ってくれる人があるんですよ。でも甘えたらいけませんね。これから気を付けます」
「そう、それは良いところに気が付いたね。それでは、このことだけはしっかり覚えておきなさい。私たち不自由な者が、人から手や足や眼をお借りすることができても、どうしても借りることができないものが一つあるのですよ」
「先生、それは一体何ですか」
「それは″心″です。″心″だけは、誰からも借りることはできないのだよ。体は不自由であっても″心″はみんな同じです。その心の生き方を見出すことが、一番大切なことだよ」
「私たちはどうして生きていくことが良いのか、教えてください」
「教えるというようなことでもないがね。この頃は昔と違って、不自由な者に対して社会の関心も高まり大変結構な時代になったと思います。手のない者には社会のほうが手になってくださり、眼のない者には皆様の愛情が眼となり、足の不自由な者には社会の福祉が、歩みよい生活を与えてくれるようになったのですからね」
「でも、実際そうした協力がなければ、私たちは生きてゆけませんものね」
「でもね、私はそれを受ける障害者は、それに頼ってはいけないと思うのだよ」
「はあ……?」
「誰にも借りることのできない大切な心を、ただ同情に頼ることだけに使ってしまったら、あんまりみじめだと思わないかい」
「それもそうですね」
「私は以前、こんな歌を詠んだことがある。
 何事もなせばなるちょう言の葉を 胸に抱きて生きて来しわれ
  ※注:ちょう⇒てふ⇒という

 喜びも悲しみもみなおしなべて おのが心のうちにこそあれ

私たちは弱い人間だけれど、私たちの内に宿されている仏の心というものは、それは涯(はて)しのない大きい尊いものなのだよ」

※順教尼一周年忌にあたり京都山科・一燈園において 石川洋さん(昭和44年4月21日)

 

一日不作 一日不食 ⑳

ここは京都山科にある清閑な勧修寺の仏光院である。
今年80歳の春を迎えられた院主順教尼は、ひとり身体障害者のみに限らず、門を叩く来訪者のために、求められるままに、ある時は厳しく、ある時は天衣無縫に、まことに活機にあふれた道を示しておられるのである。
それは尋常でない憂(う)き節(ふし)の多い人生経験の中から見出された活路であるだけに、触れる人々の苦悩に、生き生きとして働きかけ、生命(いのち)あるものとして力を与えずにはおかぬ、真実さがあるからなのであろう。
しかし、その真実さは単なる数奇な運命に生きた経験者としてではなく、その経験を超えて与えられた、宗教的な深さに支えられているものであることを、私はしみじみと思わされるのである。

17歳の春、思わぬ遭難のために双手を失った順教尼こと妻吉は、一日生きることは、一日他人の世話にならなければ、生きてゆくことのできない厄介ものであったのである。
妻吉にとって一日の苦悩は、一日の絶望でしかなかった。
その絶望の淵に立たされ、幾度か、死を覚悟した妻吉にとって、一つの宗教的転機があったのである。

それは″お前がもしここで死んでしまったら、お前の後から続いて来る不幸な境遇の人たちが、やはり同じように死を選ばなければならないであろう″という内なる声であった。
自分の不幸しか嘆くことを知らなかった妻吉にとって、この内なる声は、順教尼の一生涯を貫くただ一筋の白道(びゃくどう)となったのであろうが、この心の転機を通し、妻吉は、自分の苦悩や弱さをそのまま内に抱いて、同じ境遇にある人たちのために、自分の人生を捧げる求道者としての眼を開いていったのである。

やがて恩師藤村叡運(えうん)上人の導きにより、″人の世話をしたいなら、尼になる前に、人の母になれ″という訓(おし)えにしたがって、青年画家山口草平と結婚生活に入るのである。
一子に恵まれた妻吉の前に待っていたものは、貧困生活であった。
一本の手拭を親子三人で使い、嬰児にミルクも与えることのできない貧苦の毎日であった。

この貧困の底に、自分を訪ねてくる障害者のために、どうすることもできない妻吉は、一つの決意を促されたのである。
それは、嬰児を抱くことのできない双手なき母親として、普通の母親と同じように食をとることは″むさぼり″ではなかろうかという、宗教的自己検討なのであった。
それでなくても、最低の食物と飲物で生きる戒(かい)を保たなければ、それだけ後の始末にも他人に迷惑をかける悲しい身なのである。

妻吉は、こうした宗教的な内省と自戒から、今後自分の生活の中から、一日一食を断つことをみ仏の前に誓い、その断った一飯を、たずねてくる障害者のために供養することを決意したのであった。

順教尼は、この当時のことを偲ばれ、
「私が今日、80歳という永い年月を無事に生かされてきたということは、それでなくても両手の運動のない私にとって、一日一食を断ち、供養させていただいたというおかげによって、おのずから運動の少ない私の健康を保つ結果になったのではなかろうかと、冥加(みょうが)というものを思わされているこの頃なのですよ」
と、淡々とした心境をもらされたのである。

たなごころあわせむすべもなき身には
ただ南無仏ととなえのみこそ

これは妻吉が順教尼として高野山に上り、出家得度した感慨を詠んだものである。
が、私は″ただ南無仏ととなえのみこそ″という下の句の中に含まれた、順教尼のただならぬ内省と精進の重さを、そくそくとして身に覚えるのである。
私たちは、人間の小さな力を超えたみ仏の無量の慈愛によって生かされ、それを受けとることに救いの道があるのであるが、その慈愛を素直に受けとらしていただくことの中に、おのずから要求される、私たちの捨身(しゃしん)の内容を忘れがちなのではなかろうか。
私は順教尼が、無手の身を通して、み仏の慈悲に抱かれ、み仏の慈手を通して、多くの不幸な境遇にある人たちのために、生涯を捧げることができるように、深い自己内省と、検討を一日も怠ることなく、精進を繰り返している敬虔な捨身者であることを尊く思わされるのである。

順教尼の居室の柱に、
「一日不作 一日不食
という百丈禅師の一偈の自筆がひそかに掲げられているのであるが、80歳の今日もなお、滋味ある生活の中に、双手なき求道者として、いきいきとして自分を見詰め、深められている一面を記し、この『無手の法悦』の編纂に当たりながら、十分に順教尼を浮き彫りできなかった責めに代えさせていただきたいと思うのである。

一燈園石川洋さん(昭和43年2月10日「無手の法悦」あとがきより)

 

 

一日不作 一日不食 ⑲

「世をはかなんで尼になりたいと申されるのですか」
「はい、どうにもならない家庭の問題がありまして、煩悶の末、出家することができたらと、思い詰めて参りました」
「それで、わたしにどうしろと言われるのですか」
「先生の手で、どうぞ私を救ってほしいのです」
「生憎なことに、私は他人(ひと)を救うような手を持ち合わせておりません」

順教尼の声は、凛然として院内に響き渡った。
出家を願う婦人は呆気にとられて、ただ聴いているのみである。

「どんなご事情がありなさるのか知りませんが、世をはかなんで尼僧になりたいなど、もってのほかのことです。そんな心持で尼になっても、惨めさが増えるばかりではありませんか」
「…………?」
「一体、貴女の周囲を苦悩の渦と思うほどの、そのどうにもならぬ心が、どれだけ、貴女自身の身勝手な原因によるものであるかを、考えてみられたことがありますか」
「でも、そう考えられたとしても、私には解決の方法がないのです。どうぞ教えてください」
「ほんとうに、手なしの私に、どうしても言えと言われるのなら、私の言えることを、ご参考までに申し上げましょう」
「どんなことでも、死んだつもりでいたしますから、おっしゃってください」
「それでは、貴女の両手をうしろ手にして、柱に縛りつけてもらいなさい。そして三日間でよいから、食べることも、飲むことも、下(しも)のことさえも、自分の力ではどうすることもできない、そのままの状態で暮らしてみるのです。そこまで身を落として、何の力によって私たちが生かされているのか、突きとめてみるのです」
「先生! 私には……できません」
「今、死んだつもりでやりますと言われたのは、どなたですか! そんな料簡だから行き詰まるのです。聴けば貴女には、主人も子どももあるというではありませんか。なんという罰当たりなことを言われるのですか」

子どもも主人もありながら、家庭のある事情から、死ぬ覚悟もしたのだという婦人の告白に、心なしか順教尼の言葉は激しかった。

「さあ、私の両腕の付け根をしっかりと握るのです。貴女には、この冷え切った腕の付け根の冷たさがわかりますか。私のようなものでも、この無手の中から、二児を育てることができたのですよ」
「先生、私はとんでもない心得違いをしていました」
「目を覚ますのです。過も福も、ほんとうは一つなのです。貴女の心一つで、この世の尊さがわかるのですよ」
「先生、両手を柱に縛りつけられたつもりで、私の我を捨て、私を生かしてくださる真(まこと)の恵みに預かりたいと思います。ありがとうございました」

順教尼の両腕の付け根を握りしめる婦人の頬には、大粒の涙が伝わるのであった。

一燈園石川洋さん(昭和43年2月10日「無手の法悦」あとがきより)

 

露草の声 ⑱

彼が左手に持つ箸の運びは誠に美しく少しも不自然ではありません。
やがて彼は荷物の中から二、三葉の短冊を取り出して、私に見せました。
いずれも俳句ばかりで、雅味のある千蔭(ちかげ)流と思われる書体も私を悦ばしてくれました。

「あんた、二、三日ゆっくりと句でも詠んで静養しなさい。いずれへか、お世話いたしましょう」

私はこの人ならどこかのお寺の受け付けに坐らせてもらったらよかろうと思いました。
彼は嬉しそうに笑って頭を下げました。
彼の返事は笑顔か、頭を下げるかの二つだけであります。
彼はやがて荷物の中から仕事の服と着かえ、畑にゆき、南京の棚の後始末やら、風呂の水くみやら、ちょっとの間も惜しむように立ち働いておりました。
午後は彼とお茶を飲みながら、
「あんた、ね、花、好き、そう、花が好きらしい顔してますね。それなら、庭に何か花があるでしょ。どれなと生(い)けてください。花器はあそこの戸棚にあるのを使ってください」

私はそう言って仕事にかかり、夕方湯から上がりまして座敷の床を見てアッと驚きました。
床には私の大好きな古備前(こびぜん)に糸すすき一本に桔梗(ききょう)が一輪添えてありました。
次の茶室には魚籃(ぎょらん)に昼顔の花が笹にからませて床柱にかけてありました。
昼顔の花は明日を待つように瑞々(みずみず)しい姿を見せております。
彼は筆を取って、
「昼顔は明日咲くと思います。糸すすきはここの谷川のほとりにありましたのを見つけてきました」
「そう、よく生けられましたね。あんた差し支えなかったら詳しく話してください。あんたのご両親は?」
「ハア、父に早く死に別れまして母の手一つで22歳まで一緒におりましたが、母とも死に別れて一人ぼっちになり、淋しく過ごしておりますうち、思わぬ事故で不具となり、その当時は苦しい月日を過ごしましたが、誰も僕の好きな道を歩ましてはくれません。みな不具者という眼で見てしまわれます。いくら人々から軽蔑されましても決して悲しくも辛いとも今は思いません。僕に花と言う娘が、自然に咲いた子が、行く先々に待っていてくれます」
「そうね、花という清らかな娘がね。そしてあんたの母御はどんな方、さぞかし優しい、良いお母さんでしたでしょうね」
「僕の母は京都の嵯峨未生(さがみしょう)を幼いときから習い、僕が22歳のとき、母は病の床からも花のことを教えてくれ、一生花とともに花の中で安らかに眠ってゆきました。僕はこの世に花のある限り淋しくありません」
と、にっこり嬉しそうに笑っていました。
私は、頷きながらも、さもあらんと、いつまでも彼の面をじっと見ておりました。

※仏光院の大石順教さん「無手の法悦」(春秋社より)

 

露草の声 ⑰

朝も庭に下りたち、露に濡れた草を心地よく踏みながら雑草を取っておりますと、誰やら後ろに人の気配がいたします。
後ろを振り向きますと、そこに一人の若い男が立っています。
私の草を取っている姿を見ていたらしく、懐かしそうに、黙って丁寧に頭を下げました。
やがて静かに上げた面(おもて)にはうれしそうに笑みを含んでいます。
ふと見ると、右側の服が肩から平たく垂れ下がっているのです。
この人は左腕のみで、右手のない人であることがわかりました。

「よくこんなに朝早く来られましたね。このお近くの方ですか。何か私にご用がおありですの」
と申しましたが、その人はやはり黙って頭を下げ、やがてまた面を私に向けてジッと見つめています。
その澄み切った眼からは、今にも一雫ひとしずく)の露がこぼれるかと思いましたが、一言の挨拶もないのです。

しばらく二人は黙したまま眼と眼でお互いが何かを探るような沈黙が続きました。
この人は何を私に求めてきたのか、私はついに彼に構わず、鍬(くわ)を取って雑草を削り始めました。

双腕のない私がどうしてするのかと言われますが、何が幸いになるのか私の腕は関節からありませんので、私だけが使用いたします小さな鍬を脇にはさみまして、地に這った草を削ります。
また長く伸びた草は足の指先で抜き取ります。
彼は私のそうした仕事を見ていましたが、つと私の前に来て軽く頭を下げ、私の鍬を取って削り始めました。
今朝早くから来たこの人が何者か、そんなことを考えることもなく、自然に私も鍬を彼に任せました。
私は私で足の指先のみで草を抜いていました。
彼の鍬を持つ手は申すまでもなく左手だけでしたが、しっとりと露を含んだ杉苔の中の草を引くときは、苔をいたわるように一本一本引いています。

約一時間近く草を取っていましたが二人とも一言も物を言わず、あらかたの草を取り終わりますと、彼は筧(かけひ)の水で手を洗い、ズボンのポケットから手帳を出し、何か書いてあるものを見せます。

「僕は口がきけません。そのうえ右手がありませんが、自分には少しも不自由を感じておりません。どんなことでもさせてくださいませ。親も身寄りの者もありませぬが、自分には自然という友だちがありますから感謝しております。先生をお慕いして、はるばるまいりました。どうかしばらく修養をさせてくださいませ。お願い申し上げます」
と書いてありました。

私も長い間障がい者の方々のいろいろとお仕事をさせてもらいましたが、手がなくて、口がきけず、そうでありながら少しも暗い陰がなく、体に備わった風格と申しますか、このように落ち着いた方にお会いしたのは初めてでした。

「せっかくお尋ねくださいましたが、私のほうは、女性のみで男の方はお断りしておりますので」
と申しましたが、何か私はこの人をこのままお断りする心が淋しい気がしますので、
「そうそう、あんた朝食はまだでしょう。一緒にお食事をいただきましょう。私の家では毎朝おかゆですよ。さ、お茶のおかゆです。朝お仕事を終えて、このおかゆをいただくときの美味しさは何とも言えない楽しさ、有り難さです」
そう言って彼と一緒に朝食をいたしました。

※仏光院の大石順教さん「無手の法悦」(春秋社より)