「妻ちゃん(順教さん若かりし頃の芸名)、あんた明けても暮れても勉強がしたい、したいといっているけれども、可哀想にどこに行っても断りをいわれているそうだが、いっそ字引きを買って、字引きで勉強したらよいではないか」
と(ある人が)いってくれました。
「字引きってなんですか」
「字引きといえば、たとえば札幌なら札幌という字を知りたかったら、それを引けば出てくるものです」
「へえー、そんな便利なものがあるんですか。どこに売っておりますか」
「本屋に行ったら売っております」
「そうですか、では」
といって、街の本屋に飛んでまいりました。
「字引きありますか」
「ありますよ。何の字引きですか」
「なんや知りまへんねえ。とにかく字引きでんねん」
「それは困ります。いろいろございますから」
「そうですか、実はね、私これこれこういう女です。手なしの寄席芸人なんです。聞けば字引きというもので勉強せよといってくれた人があるんです。なんとかしてその字引きというもので勉強がしたいんですが、ご主人そういう本を私にみつけてくださいな」
「そうですか、あんたお手々がなくて、そうですか、ようござんす。なんか見てあげましょう」
といって、書棚から持ってきてくれましたのが、みなさんご存じの言海と並び称されました大辞林でございます。分の厚い本を持ってきてくださいました。
「えらいまた分の厚い本ですな。この文字はまるで黒ゴマを振ったような字ですなあ。これが字引きですか」
「はい、これ一冊あったら、りっぱな学者になれます」
「へえー、そうですか。いかほどですか、これは」
「50銭ですが、あんたの気持ちがうれしいから、この字引きをあんたにあげましょう。だから勉強してください。この字引きの引き方はこうして引くのです」
といって、片仮名でも、平仮名でも引くすべを教えてくださいました。
「そうですか、じゃあ、あの、すみませんが、わたしのふところに入れてください」
本屋のご主人が、私のふところにその字引きを入れようとなさいますと、もう一冊がありました。
「あなたのふところに、なんか本がもう一つはいっておりますが・・・・・・」
「へえ、ふところに入れているのですか。これは何の本ですか」
「何の本ですかって、あんた自分のふところにある本を知らないんですか」
「知らないんですよ」
「知らないものをなぜ持っているのですか」
「いや、私ね、こちらに来るときに、ある若い人が、この本を持っていらっしゃいといって手を振っていました。坊ちゃん、私にその本をくださいますかといいましたら、こんなものわからないといわれましたが、頂戴なといって窓から放り込んでもらったのが、この本です。それでいつでもふところにはいっているのです」
「ふところに入れていても仕方がないじゃありませんか」
「でもね、この人はだいぶ学者らしいと思ったら、ふところから本を出して、これを読んで聞かせてくださいといったらわかると思いましてね……。楽屋の連中はこんなものはわからないですよ」
「なるほどなあ、字引きがわからないんだから、この本はなおさらわかりませんね」
「何の本ですか」
「これはあんた、聖書ですよ」
「聖書ってなんのことですか」
「聖書といえばキリスト教の本ですよ」
「キリスト教ってなんですか」
「キリストといえば西洋の神様ですよ」
「へえー、西洋にも神様ってあるのですか」
「それはありますよ」
「そんなら、西洋の神様は稲荷さんですか」
神様はお稲荷さんしか知らないんですね。こんな非常識がありましょうか、まるで嘘のようなほんとうの話でした。
「どうしたらこの本わかるんですか」
「それはあんた、いいこと言いましたなあ。この本に書いてあることが知りたかったら、教会に行きなさい」
「教会ってなんですか」
「教会といえば、このキリストの神様がおのこしくださった結構な教えを、詳しくお話をしてくださるところです」
「へえー、どうしたらその教会に行けるでしょう」
「十字架があるから、その十字架を目当てに行きなさい」
「十字架ってなんですか」
「何もわからん、いったいどういったらわかるんだろう。あんたお寺に行ってお説教を聞いたことありますか」
「ええ、お説教ということは聞いています」
「そのお説教と同じようなものでしょう。日本でいったら、お釈迦さんというお坊さんの偉い人が出られて、今日の仏教というものがひろがった。日本でいったらお釈迦さんのような方……」
「へえー、お釈迦さんていうことは知っておりますよ。あの4月8日になりましたら、阿弥陀池のお釈迦さんが、甘茶をくれはりまんねん。釈迦もお誕生という歌を私知っております。そのお釈迦さんですか」
「そうです、そうです」
「そうしたら十字架とはどんなものですか」
「十字架とは、こういう形のものですよ」
「そうですか、じゃ、どこでもそういう教会はあるんですか」
「ありますよ」
そのときはうれしゅうございました。それからと申しますものは、教会へまいりまして牧師さんのお話を伺っておりますうちに、ご承知のように「罪を憎んで人を憎まず」という言葉がございました。よかったなあ、このキリストの教えというものは、こういう結構なものがあるとは知らなかった。それからというものは、右に聖書、左に大辞林、本屋のご主人がくださいましたその大辞林、こういう字を調べようと思って引くというよりも、めくら滅法で開ける。わけもわからずに開けておりますと、何かその大辞林の中に書いてありますことが、非常に結構に思えてくるのでございます。
※仏光院の大石順教さん「無手の法悦」(春秋社)より