朴念仁の戯言

弁膜症を経て

「文章を書く」苦しみ

つぶやき
太陽は音をたてずに昇る。夜明けを久しぶりに体感した。それは想像以上の濃いオレンジ色を放っていた。冬の地上にあるすべてのものを、つめたい闇からすくい取り、力を与えてくれる。古代の人々が太陽を崇めたことにうなずける。
最近、人や動物を描いた洞窟壁画に妙に惹かれる。世紀を超えて今にも動き出しそうに見えるのだ。線だけの単純さが不思議な躍動感を生み出している。描くことの理想のかたちがここにあると思う。

学生時代、小さな子ども向け出版社のアルバイトに応募し、試験を受けたことがある。「三角定規の使い方を、子どもに分かるように400字以内で書きなさい」。こんな問題だったと思う。20代なんて若者は若者で群れたがり、子どもと触れる機会などめったにないのだ。何と書き始めていいのやら。それでもどうにかマス目を埋めて、雑居ビルの一室でひとり、次の難問を待っていた。
やがてドアが開き、編集者らしきロマンスグレーの人物が現れた。まるで教科書から抜け出た川端康成だ。禽獣のような目の奥に、強い光が揺らいでいる。カワバタ氏は、私を一瞥すると、深くため息をついた。「キミねぇ」「はい」「文章を書く、ということは、だよ」「はぁ」「書くということはだ。これはもう…苦しくて苦しくて、ねぇ」「ハァ」「それこそ血ヘドを吐くような苦しみだよ。キミ、わかる?」
そう言うなり、カワバタ氏はかたく目をつぶり、天井を見上げたまま、コトリとも動かなくなってしまった。合否は言うに及ばず。カワバタ氏は見透かしていたのだ。お気楽に人生を過ごし、「自分のこと以外なぁんにも考えていません」と顔に書いてある若者の文章の味気なさを。

自慢にもならないが、私は8歳から日記を書き始めた。愚にもつかないつぶやきレベルであったが、一行でもたった一言でも、とにかく書いていた。それは顔を洗うことと同じように何の苦労もいらなかった。笑っちゃうことに、「鍵つき日記帳」(?)などという、もはや化石に近いモノに書いていた時期もあった。インターネットのブログやツイッター(つぶやき)のように、人に読ませるための日記が世の中に登場するなんて、想像もつかなかった頃の話だ。
この血ヘドの一件で、書くことイコール苦行という図式が少しだけ私の中にインプットされた。
とにかく何かしら書いていたかったので、誰かに教えを請わなければまともな文章は書けないのだと思い、自宅でペン習字を習うようになり、シナリオ通信講座を2年ほど受けてみた。戦慄の小説「リング」の作者鈴木光司氏や、横綱審議委員だった内館牧子氏らが学んだシナリオ学校だ。「ハンカチ」や「別れ」など、毎週出されるテーマで、20枚のシナリオをひたすら書いては添削を受けるのである。生まれて始めて書いたシナリオは、それなりに誉められたが、2作目以降はボロボロに酷評され、オボロゲながらわかったのだ。血も涙も流さなければやはり文章は書けない。
何を通して生き方を学ぶのかは人それぞれで、例えば走ることや、日々の仕事をこなす中で見つける場合もあると思う。私はたまたま文章を書くことで、人の痛みや世の中の動き、言葉そのものに敏感になろうとした。
「まったくわかっていない」と言われそうだが、人とのつながりが広がったのは確かだ。
今でも雑居ビルの一室では、ロマンスグレーのカワバタ氏が虚空をにらんでいるような気がする。「書く苦しみは生きる苦しみだね。生きていくことの意味をもう一度見つめ直しなさい」とつぶやきながら。その部屋にはかすかな朝日が射し込み、やわらかなオレンジ色に包まれている。
二本松市の木戸多美子さん(平成22年2月12日地元紙掲載)

 

母の後ろ姿

50年以上経った今も、忘れられない母の後ろ姿、それは、私が修道院に入って数ヶ月後、初めての面会が応接間で許された後、1人で門を出て帰っていった時の母の後ろ姿です。

30歳で修道院に入った時、母はすでに70代の半ばで、1人で出掛けると、時に方角を間違えることもあって、外出には私がいつも付き添っていました。その母を残しての入会、付き添いもなく、1人で会いに来てくれた母の手には、柄の長い空色のパラソルがしっかりと握られ、それをコツン、コツンと突きながら門を出てゆく母の後ろ姿に、見送る私は涙を抑えることができませんでした。
 
走っていって、パラソルの代わりに手を引いてやりたくても、それが許されない悲しさ、それをかみしめている私に、母は一度も振りかえらずに帰ってゆきました。その後ろ姿には、70年余りの間、母が耐え忍んだに違いない数多くの苦労が刻まれているようで、母の背は、以前よりいっそう丸く、小さくなっていたように見えました。
 
修道院に入るまでの7年間、家の経済を助けるために私は働いていました。毎月の給料を、封も切らずに渡すと、母は押し頂いてから、まず仏壇に供えるのが常でした。その後ろ姿には、歳を取ってから、迷ったあげくの果てに産んだ娘への複雑な思いがにじんでいるようでした。
 
そんなこともあって、働いた末、修道院に入りたいと申し出た私に、母は「なぜ、結婚しないのかね」と言いながらも、あえて反対はしませんでした。
 
入会前の夜だったと思います。風呂場で私の背中を流してくれながら、「結婚だけが女の幸せとは限らない」と呟いた母の言葉が、30年見馴れた母の後ろ姿を集約していたのかも知れません。

※シスター渡辺 和子さん(平成26年5月14日「カトリック教会がお送りする心のともしび」より)

 

 

動物愛にあふれた情熱の人

世界的なフラメンコダンサーで本県出身の長嶺ヤス子。私は彼女を「やっこ」と呼び、家族も仲良くさせてもらっているが、個性的な人といって彼女の右に出る者はいない。本人には誠に悪いが、普段の生活では理解不能な人間。やっこは私より2歳ぐらい下、ほぼ同年代だが、よく分からない女、変わった女であるのは確かだ。
ところが彼女の舞台をひと目見てしまうと、いやが応でも彼女の世界に引きずり込まれる。「だまされた」「しまった」「やられた」。フラメンコという芸術に込められた情熱が爆発し、荒れ狂う。圧倒され、言葉を奪われる。年齢を感じさせない肉体と情念に、彼女の日々の努力を思う。「ああ、おれはこいつほど努力していないな」と。
やっこは何匹も猫を飼っていることで知られるが、それには理由があった。ある時、自分の車で猫をひいてしまい、以来、供養のため野良猫を拾ってきては飼うようになったのだという。
ある時、一緒の車で移動していると、別の車がひいた猫の死体が道路に横たわっていた。内臓が散らばって、無残な姿だ。「止めて」。やっこは突然車から降り、猫の死骸を手でかき集め始めた。見ている私たちはただ呆然としていた。そこまでする人間がいるのか―。
今から30年以上前、まだ都内に自宅があった時、わが家では犬を飼い、家族で可愛がっていた。ところが病気になってしまい、獣医師から「がん」を宣告された。ニューヨークのカーネギーホールの舞台出演で渡米する前々日、やっこが電話をくれた。「いいお医者さんがいるから紹介してあげる」。住所を聞き、妻が犬を連れて行った。獣医は「一晩お預かりして様子を見ましょう」と言う。妻はその言葉に従って帰路に就いたが、自宅に着くか着かないかのうちに急変の知らせが入った。
獣医はその間、「リンパ管を破って液が漏れている。液を抜けば呼吸が楽になるだろう」とリンパ液を抜く処置をしたという。ところが、処置後も具合が悪い。妻が帰って犬も寂しがったようだ。妻は慌てて獣医のところへUターンし、タクシーで連れ帰ったが、その車中で容体が急変。そのまま死んでしまった。
「明日のことがあるから来なくてもいい」と言うのに、やっこは青くなってすっ飛んできた。それから、わが家の居間はすごい状態になった。
「龍ちゃんが死んじゃった」と泣く中学生の娘たち。その隣でやっこも声を上げて泣きわめく。犬を助けられなかったという自責の念。子どもとやっこの泣き声と「お通夜だから」とやっこがたてた線香のにおい…。いつの間に、どうやって準備したのか、立派な犬用の棺おけも届いた。翌日、やっこは泣きはらした目でNYに旅立っていった。今も自宅に犬の写真を飾ってくれているという。
昨年末、家族でやっこの舞台に駆け付けた。日本舞踊をやっている娘が言う。「お父さん、私、ヤス子さんを見ていると涙が出てしまう」。そうか、お前もそれが分かるようになったのか。それがヤス子の舞台なんだ。ヤス子の世界なんだ。
日本画家、日展評議員の室井東志生さん(平成22年3月20日地元紙掲載)

 

仏様のような生き方

「蓄えも年金も少なく、皆さんとお付き合いすることはもうできません。暖かい土地へ移り、妻と静かに暮らします」。
そんなあいさつ状を出し、親しい人にも転居先を告げずに姿を消した男性がいた。
20数年前のことだ。
直前まで、東京で学ぶ会津出身者のための寮で学生の世話をしていた。
会津若松市の出身で大学を卒業後、職業軍人、鮮魚商、教員などをし、還暦を過ぎて寮に住み込んだ。
いがぐり頭に丸い眼鏡、腰には手ぬぐい。
質素な暮らしぶりだった。
学生の少々の暴走には目をつぶったが、道に外れた行為があれば、鋭い眼光で諭した。
後に分かったことがある。
施設の改修費を募るため会津に通った際、新幹線を使わず、東京から鈍行列車を乗り継いでいた。
少しでも改修に充てたくて節約したらしい。
鮮魚店を畳む時には「遅れた支払いは受け取りません」と張り紙をし、生活苦の人のツケを帳消しにした。
旧制中学の先輩の老人は、思い出を話しながら「仏様のような人」と涙ぐんだ。
卒業、進学、就職、転勤…。
別れの季節が巡ってきた。
この時期になると、鮮烈な印象を残して去ったその人を思い出す。
健在なら間もなく90歳になる。

※平成22年3月17日地元紙1面「あぶくま抄」より。

 

子の教育は親の責任(日本人の美学)

節目の躾

桃栗3年、柿8年、梨の大ばか16年。この言葉は誰に教えられたわけでもないのに今も頭の中に残っています。地域によって表現は異なるようで、作家の山本周五郎さんは梨ではなく「梅の木18年」と書いています。桃栗は3年目から実をつけ、柿は8年目から、梨は16年の年数がかかると解釈する人が多いようですが、この言葉は子どもの躾(しつけ)を例えているのです。
子どもの躾は3歳までに「ありがとう」「さようなら」とあいさつができるように教えることです。昭和20年ごろまでは小学校に入学するのが数え年で8歳でした。この年ごろまでに自分のことは自分でできるようにしました。
現在は3歳保育の時代です。母親は自分の子どもをよく見てください。自分は3歳の時に何ができたでしょうか。思い出してください。
デパートなどでよく見掛けますが、子どもが高級な陶器に手を触れても注意しない母親がいます。他人に迷惑を掛けないことを親がきちんと教えることです。子どもを人前で叱ったり、頭を叩いている光景も見掛けますが、子どもは悲しそうな眼をしています。このような場所で子どもを叱る母親の真意は理解できません。子どもを叱る前に母親は自分の子育てに問題がなかったかなど反省する必要があるでしょう。子どもは自分の責任で育ててください。
数え16歳は元服です。梨は教養「なし」に掛けています。16歳までに教養を持ちなさいという意味で、何事も責任を持って行動するように教えています。
梅の木18年とは、寒さに負けず凛としてかぐわしく咲く梅の花のような心構えを持ってほしいと願いを込めた言葉です。心の準備や覚悟を抱くことの大切さを説いています。
伝統文化をきちんと教えられるような親であってほしいと切に願うこのごろです。
小笠原流礼法第32世宗家直門総師範の菅野菱公さん(平成22年3月2日地元紙掲載)

 

不食という生き方⑥

家族には、思うほど深いつながりはない

家族や血縁にこだわる必要もありません。
私たちの本質が、元はたった一つの魂であることが理解できれば、この意味がすぐわかると思います。
もちろん親から生まれる以上、その人物のDNAを受け継いでいることは否定しませんが、それは単に肉体的な性質の継承です。
肉体はこの世で暮らす上での便利な「鎧(道具)」であり、その材料を分けてもらったということです。
だから、ここが似ているとか、ここが似てないとか、そういう比較なんてどうでもいいこと。血縁にこだわる気持ちは理解しますが、そのこだわりを超えたところに私たちの進化があります。
「近すぎても遠すぎても、いざこざが起きてしまう」
それが家族であり、家族という関係は、私たちがこの世で経験する「たくさんある学び」の一つです。
誤解されるような言い方かもしれませんが、私たちが考えているほど、家族(肉体面での継承のある人同士)には、深いつながりはありません。
私たちは何度もこの世に転生していますが、どこかの生で船に一緒に乗り合わせた人々、イメージとしてはこれが今の家族です。
だからと言って、家族を粗末にしていいわけではありません。
せっかく乗り合わせた仲間ですから、できるだけ素敵な思い出を作りましょう。そのときに必要なのが「依存せず、拒絶せず、適度に関わる」姿勢です。
親だから、子どもだからという上下関係も、魂レベルには存在しません。
大人以上の態度・対応がとれる子どもがいますが、何度も転生している古い魂が入っているわけですから、別に不思議なことではありません。
かつて子どもに厳しく接したとき「どうしてそんなこと言うの」と悲しい目で見られたことがあります。そのとき私は気づきました。
成長のプロセスは、親が押しつけるものではなかったのです。
子ども自身が持って生まれた性質に基づいて成長する、それが「魂の学びルール」だと知り、深く反省しました。
親は何かと周囲と比べがちですが、その子には個性があります。その子なりの学びの時間があり、独自の選択権があります。
対話は必要ですが、強制は不要です。あなたのために生まれたわけじゃない、そんな子供の叫びは正しいのです。
親の役目は見守ること。親という漢字は木の上に立ってみると書きます。おたがいの学びを尊重しましょう。
※弁護士・医学博士の秋山佳胤さん

 

不食という生き方⑤

男女の垣根を超えると豊かになる

私は「男女」についても、こだわりがなくなりました。
生まれ持った肉体上の性別はあっても、こうすべき、こうしなきゃいけないという強迫観念が、自分の中から消えました。
女性性が強い時代になると先述したのも、女性が男性に取って代わる、支配するという意味ではありません。
女性という存在が生まれながらにして持つ、優しくてしなやかな感性、受精して子どもを産むという特別な機能を持つがゆえの豊かな創造性、そういう要素が新しい世界を作る上で必要なのです。
少し前の世界の歴史は、まさに男性の歴史でした。
男性上位社会を維持するため、女性の潜在的なパワーを封印しました。それが今、解き放たれました。
男性上位社会を続けた結果、世界がシステムエラー起こしたからです。
女々しいとか、男らしいとか、女のくせにとか、そんな言葉を口にする人もいますが、これは幼少期に偏った思想をすり込まれた結果です。だからその人を一方的に責めるだけでは、事態は解決しません。
世界がシステムエラーを起こした状況で、そんな自由度のない思想をいつまでも握り締める必要はないのです。
男はこうあるべき、女はこうあるべき、そんな思い込みの垣根を超えると、今とは比べものにならないほど豊かな社会が生まれます。殺し合うこと、傷つけ合うこと、そういう行為はバカバカしいと本気で思えるようになります。
私たちの本質は、肉体的な性ではありません。
本質は魂であり、魂というエネルギー体は「たった一つ」です。
たった一つの存在から、私たちはそれぞれに分かれたのであり、そのときの生(過去生)によって、男女のどちらかで生まれたにすぎません。
同性愛者や性同一性障害の方が次々とカミングアウトされていますが、彼らは自分の性に違和感を持ち、性を変えようとします。まるで性を超えて生きようとしているようにも見えますが、そこにあるのは私たちの原点です。
そもそも私たちは「ジェンダー・フリー」なのです。
ぜひ、次の事実を知ってください。
「誰の中にも、男性エネルギーと女性エネルギーが同居している」
究極の結果とは、自分の中の「男女エネルギー」がバランスよく手をつなぐこと。肉体レベルの結果を超越した魂レベルの融合こそ、究極の結果です。
こだわりなど、もはや存在しません。
※弁護士・医学博士の秋山佳胤さん