朴念仁の戯言

弁膜症を経て

不食という生き方①

年末、久しぶりにアマゾンで本を数冊購入した。
パソコンの画面には消費者の購買欲を煽るように、注文した本に関連する本が次から次へと紹介される。
その中にあった本を、行く予定がなかった図書館で偶々見つけ、借りた。
数時間で読める文量だ。
その内容は、表現は違っても今まで読んだ本と同根であり、新鮮味はそれほど感じなかったが、私の確信を裏付けるものだった。
そのいくつかを掲載したい。

(以下、抜粋文)

食べる量を減らす、あるいは食べなくなると、自然界との「つながり」が見えるようになります。
見える、感じる、どんな表現でもいいのですが、自分が自然界とつながっているのが「わかる」ようになるのです。
これは感覚が研ぎ澄まされた状態です。
研ぎ澄まされるということは、普段、鈍い感覚の状態では決して見えなかったものが見える、つまり「霞が晴れてクリアになった」状態です。
そんな状態だから、あらゆる存在と自分との結びつきが見えるのです。
例えば道端に顔を出す名前も知らない雑草を見ただけで、その雑草と自分が太古からつながっていた事実を知ります。
蚊に対してもつながりが見えますので、一切殺さなくなります。
私も以前はさんざん殺していました。でも今は蚊を殺すことで私に「痛み」が走ります。自分の一部が傷つく痛みです。
蚊も自分の延長なのです。ちなみに蚊を殺したいと思った瞬間、その蚊は半殺し状態であり、生きながらにして死んでいます。つながっているからです。
私も普通の人ですから蚊に刺されることくらいありますが、刺されればかゆいものの、10分後には治癒しています。寝ているときに刺されていても起床したときには治っており、刺されることが気になりません。
植物や動物の気持ちも、自然とわかるようになります。
それをされると嫌だ、こうすると楽しい、彼らの気持ちがまるでテレパシーのように伝わります。
つながりを実感することがこんなに幸せなことだったなんて、それまでの私には考えもつきませんでした。
たとえが正しいかどうかわかりませんが、赤ちゃんの気持ちがお母さんに伝わる瞬間に似ているのかもしれません。
この感覚を獲得してから、私が実践し始めたことがあります。
それは相手に対して愛を送ること。
するとその人がだんだん元気になることも判明しました。
ヒーリングの世界では昔から言われていることですが、私は全ての存在と自分とのつながりが見えてから、このエネルギー交換を知りました。
怒りや憎しみではなく「いつもありがとう」「あなたを愛しています」と念じると、念を送られたほうは潜在的な意識で気づくようです。不思議なことに、次第に言葉や態度が変わります。
別につながりが見えなくてもいいのです。
すべてがつながっていることを、頭の隅っこに置いてみてください。
※弁護士・医学博士の秋山佳胤(あきやまよしたね)さん

 

センター試験以前

大学入試にまつわる不快な記憶が消えたのは、厄年の前にパニック障害うつ病を患い、死なないでいるだけで精いっぱいの底つき体験を経たあたりからだ。
要するに、底上げの価値観のもとでは生きのびられなくなり、ただ生きて在ることの大事さが身にしみた時点で、入試の失敗の苦い思い出なんてどうでもよくなってしまったのだ。
40年前、国立大学の入学試験は一期校と二期校に分けて実施されていた。その名のとおり最初に入試が行われる一期校には東京大学をはじめとする旧帝国大学千葉大学などの旧医科大学が連なり、戦前の専門学校や師範学校が戦後になって昇格したいわゆる駅弁大学の多くは二期校に分類されていた。
どうしても医者になりたかったわけではないが、受験勉強に精を出していると、中学2年からおなじ屋根の下で暮らしだした継母との軋轢(あつれき)をはじめとする日常のわずらわしさから目をそむけていられた。それに、文学が好きだったけれど本業にするほど才能に自信はなく、医者になれば食いっぱぐれがなさそうだったから、医学部をめざした。
浪人の秋の予備校の進路指導で合格確実とされた大学は一期校だった。そのときの過信が妙な余裕を生み、浮ついて臨んだ一期校の試験に落ち、東北の二期校に新設された医学部に受かった。
東京からの都落ちは自意識過剰な若造の根性を強く曲げた。鬱屈(うっくつ)が作家の芽を育てるのだとすれば、この時の挫折体験ほど良質な土壌はない。
芥川賞候補になっては落選し続けた期間、入試のときに味わった悲哀に比べたら屁でもないな、と耐えられた。そして、この歳まで生きて、成らなかったことは縁がなかったのだとあきらめる図太さだけが身についた。
※作家・内科医の南木佳士(なぎけいし)さん(平成22年1月8日地元紙掲載)

 

からだの声に耳傾けて

年を重ねて あきらめ上手に

親しい付き合いの人たちが、このところ続いて大病をしている。仕事が忙しすぎたとか、長年の連れ合いの介護で、自分のからだを顧みる暇がなかったために病気の発見が遅れた人もいる。気にかかっているが何もできない。
みんな60代から70代で、そろそろ病気が出てくる年齢なのだろうか。
中には、普段から飲みすぎに注意していたのに病気になってしまった人もいる。「だから気をつけなさいって言っていたのに、これからは自重してよ」などと、本人が一番そう思っているに違いないのに、余計なことを言ってしまったり、とにかく、身辺に病気の人が多いと気持ちが晴れない。
90歳を過ぎた私が元気でいるのが、申し訳ない気持ちになったりもする。病気を機に、これから体力の限界よりも少し早めに、力を抜いて生きてほしいと願うばかりだ。

亡くなった上坂冬子さんと、健康管理について話をしていた時、こんな話をされたことを思い出す。まだ私の夫が生きていた頃のことだが、「あなたは、そばに止めてくれる人がいるから、極限まで無理することがないのよ。私のような一人ものは、仕事となれば少しくらい体調がおかしくても、起き上がれれば無理しても出かけてしまう。顔色を見て適当に止めてくれる人がいるのといないのとの違いです」
今は私も一人ものだ。止めてくれる人もいないが、からだの方が「これ以上は動けないよ」とでもいうように動かない。そのからだの声に耳を傾けて生きている。限度を超えないのは、年を重ねて身に付いた知恵のせいでもある。今の自分の手に余るものは本能的に避ける、あきらめ上手になっているからだと思う。
私は犬が好きで、道を歩いていても散歩の犬に出合うと、つい顔が笑ってきてしまう。本当は好きな柴犬を飼いたい。30代の頃に、生まれて1カ月くらいの柴犬をもらって、10年いっしょに暮した。毎日散歩をさせるとき、喜んで走りたがる犬の革紐を引っ張る力が、今も私の手に感触として残っている。元気いっぱいの犬とともに歩ける体力がない。それでは飼い主としての責任が果たせないから、あきらめなければならないと思う。
好きなことは、けっしてあきらめずに続けていく、それがしあわせな生き方だと、かたく信じてきたけれど、あきらめが肝心という言葉にすなおに従うこともできるようになってきた。年をとるって本当に面白い。
※生活評論家の吉沢久子さん(平成21年12月4日地元紙掲載)

 

楽屋で聞いた いまわの〝喝〟

◆母の最期
私は、母の龍千代が大好きだった。15歳で娘歌舞伎の世界に飛び込んだ母は、とても厳しく、そして優しい人だった。
私が4、5歳の時、当時流行したインフルエンザで40度の熱にうなされ、ほとんど意識がなくなってしまった時があった。
医者が「すぐに病院に連れて行きましょう。そうしないと死にますよ」と言うと、母は「先生、帰ってください。この子、舞台で殺しますから」と言った。
そして母は「とんちゃん、お客さんがあんたの演技を見るために高いお金払って待ってるんだよ。役者なんだから出てお行き。休みたいなら舞台で倒れな!」と言って、私を舞台に立たせた。後に妹からは、母は舞台の袖で泣いていたと教えられた。
その母が白血病だと聞かされたのは、私が28歳、母が66歳の時だった。医者は「もって半年ですね」と言った。兄弟全員が、愕然とし、兄の武生は「おふくろの好きなことさせような」と力なく言った。
「母ちゃん、どっかに行く?」と聞くと、母は突然「台湾に連れて行ってくれないか」と言った。母は、娘歌舞伎で座長をしていた戦時中、慰問で台湾に行き、芝居と踊りを披露したという。
その時、担架で運ばれて来た今にも死にそうな兵隊が、母の芝居を見て涙を流したそうだ。その姿を見た母は、女優になって良かったとしみじみと思ったという。
兄弟全員で、母を台湾に連れて行った。もう劇場はなかった。私が「ここに劇場があったんだよ」と教えると、母は「わーっ」とその場に泣き崩れた。すると、それから急に元気になり、なんと20年近くも生きてくれたのだ。
15歳で入団した私に「飲む、打つ、買うは役者の基本。芸の肥やしになる」と言って、遊びを奨励したのも母だった。飲まなければ飲べえの気持ちは分からない、ばくちを打たなければ負けた時の悔しさや表情が分からない。そして母は「見栄を張ってでもいい服を着な。ぜいたくもしてみなきゃ、人間の本当の気持ちなんて分からないよ」とも言った。
母の最期の舞台は1997(平成9)年12月、明治座公演楽日のフィナーレだった。車いすで登場した母は「これからも倅たちをよろしくお願いします」と深々と頭を下げ、万雷の拍手を浴びた。その時の光景を思い出すと、今でも目頭が熱くなる。
99年7月8日、母が亡くなった。85歳だった。医者から、もうだめだと聞かされていた時、私はちょうど九州で公演中で、妻が東京・渋谷の病院に付き添っていた。
開演5分前のベルが鳴っても、私は化粧ができなかった。何かの抜け殻のように、楽屋でぼーっとしたままだった。
すると突然「とんちゃん!」と怒る声が聞こえた。間違いなく母の声だった。しかし、母が楽屋にいるはずがない。慌てて携帯電話を取り、妻に電話すると、妻は「何で分かったの?たった今、亡くなったよ」と言った。
そんな体験をしたのは、その一度きりだった。きっと母は最期に「ちゃんと化粧をして舞台に出なさい!」と言いたかったのだろう。私は、そう解釈している。
大衆演劇役者の梅沢冨美男さん(平成21年11月23日地元紙掲載)

 

この世照らす光

早朝の運動を終えて、何気なく頭をグイッと横に捻ったら突然激しい眩暈(めまい)に襲われた。
すぐに治まるだろうと、その場で瞼を閉じてじっとしていると、今度は吐き気を覚え始めた。
吐き気をこらえて目を開けてみると、何もかもが大きく右回りにぐるんぐるんと回っていた。
その内、立っているのもしんどくなり、四つん這いになって硬く瞼を閉じた。
それでも目が回る。
少し様子を見て立ち上がり、壁伝いに歩いて階段に腰掛けた。
治まる様子はない。
尋常ではない身体の異変に救急車を呼ぶかどうか迷う。
弁膜症で息苦しくなって夜中に目が覚めた、その時と同じ切迫感が身を包んだ。
着古した寝間着と、伸びに伸び切った股引きとパンツの見すぼらしい姿で救急車に運ばれるのか。
早朝のサイレンに近所ではちょっとした騒ぎになるだろう。
そんなことを頭の片隅で思いながら電話に目をやった。
どうする?119に電話するか?
そんな自問を繰り返していると、便所のほうから私の名を呼ぶ母の声が聞こえた。
どうした、どうした、と訊ねる声が響く。
それを境に不思議と症状が治まってきた。
なんでもねえ、と答えて立ち上がり、また壁伝いに歩いて茶の間の縁に座った。
この様子では車の運転はまずい。
職場には身体が落ち着いてから行くとして壁時計に目を向けた。
職場に連絡するにはまだ早い時間だ。
炬燵に横になった。
すると、母が便所から出てきて様子を訊ねた。
なんかおかしいと胸騒ぎがしたんだ、と母。
続けて母は、それはメニエールだ、と確信した口ぶりで言った。
大丈夫、様子見ていれば治る、自信に満ちた母の口ぶりに私の弱気な気持ちは振り払われるかのようにふっと消えていった。

ああ、再発したのか。
10数年前にメニエールで一週間ほど入院したことがあった。

当時は血気盛んな頃で、上司であろうと誰構わずの勢いで正論を振りかざして意見した。
正しく猪突猛進の勢いで。
今思えば、正論の本性は、我よし、我かわいさの自己主張だったことがよく分かる。
そんな我(が)の主張が災いしたものか、ストレスからの発症でしばらく入院したほうがいいと医師に言われた。
その時はこれほどの症状は出なかった。

母の確信した口ぶりは自分が体験したからこそのものだった。
当時、20代の母は生後8ヶ月間もない弟を背負い、父の姉の家に向かって歩いていた。
踏切手前で眩暈に襲われ、踏切をどうにか渡り終えると耐え切れずにしゃがみ込んでしまった。
通りすがりの男のドライバーが、どうしたんですか、大丈夫ですか、と駆け寄って声を掛けた。
目が回って立ち上がれないんです…。
母はうずくまったままそう言って、義伯母の家の方向を指差して義伯母の名を伝え、誰か家の者を呼んできてくれるよう男に頼んだ、と、そんな一幕を以前に母が話してくれたことを思い出した。
眩暈はその後も何度も母を襲い、苦しめたという。
人によってはあまりの辛さに仕事もままならず、一日中、横になったままやり過ごすとか、ひどい時は救急車を呼ぶこともあるとは聞いていたが、たかがメニエールとあなどっていた自分がそうなってみて始めてその辛さを思い知った。

母は、幼い3人の子を育て上げなければならないとの強い使命感から一時も気が休まることなく、満足に睡眠時間を取ることもできず、その影響で高血圧気味となり、日々、先の見えない生活に四苦八苦していた。
そんな状況に追い打ちをかけるようにメニエールに襲われた。
実の親も、血の通った姉妹や親戚も近くにおらず、当時、母が頼りとするものは己自身と、幼子の成長する姿だけだった。

親はどんな想いで子を育てるのか。
その深く、大きな愛を、まだ私は知らない。
恐らく一生分かることはないだろう。
それでもこれだけは言える。

母は偉大なり。
母性はこの世照らす光なり。

 

大衆演劇を守り続けた堅物

◆厳格な父
父清は、私が紅白歌合戦に出場した年の1983(昭和58)年6月に亡くなった。75歳だった。紅白のシーンは見せられなかったが、劇団の公演が超満員御礼になる姿は見せられたと思う。
大衆演劇全盛期の昭和初期、父は剣劇の大スター市川梅三郎として全国に名をはせた。
母龍千代との見合いの時、仲介者が「龍千代と一緒になるんだったら、この銭箱をつけてやるよ」と大きな銭箱を見せると、父は「私も天下の市川梅三郎。芸は売っても心は売りません」と、金の受け取りを断ったという。
そして、結婚に反対する人から「剣劇なんかでこの娘を幸せにできるのか」と問い詰められた時には「幸せなんて、一緒になって力を合わせて暮らしてみて、初めて言えることじゃないですか。今、幸せにするとは言えません」と答えたという。母も、その通りだと思ったと話していた。
私が15歳で入団した時、座長は兄武生が継いでいたので、父から芝居を教えられた記憶はあまりない。もっとも、口数が少なく「芝居は見て覚えろ」が信条の人だったので当然のことだ。
父は極めて厳格な家庭に育った。役者にしては堅物で「なぜ役者になったんだろう」と、誰もが首をかしげる人だった。
ある地方のお祭り公演に行った時だった。役者は人気者なので、若い女の子が寄ってくる。そして、その女の子たちと夜遊びをして帰ると、父は「いい加減なことをするな!」と、嫌というほど私をひっぱたいた。だから父の前では猥談など絶対に口にはできなかった。
母の手記によると、父は少なくとも5回、出征している。5回もである。「万歳!」で見送られることもなく、いずれもひっそりと出て行き、帰って来ると芝居に打ち込む繰り返しだったという。さすがに母は「本当に戦争に行ってるんだろうか。ほかに女がいるんじゃないだろうか」と、不安に思った時もあったという。
2回目の出征の時は、公演先に赤紙が届き、なんと父は着流しで出て行ったそうだ。ほかに、何度目の出征の時かは不明だが、出征する当日、母が父の代役で国定忠治の舞台に上がり、兄の武生をおんぶしているシーンの時、父は客席の一番後ろに立ち、母に敬礼をして出て行ったという。
私は、父が国のために働いたのは事実だと思う。戦争の話はこれっぽっちもしなかった父だが、「あの戦争は間違っていたね」とだけは話していた。
父は「男だったら何をやってもいい」と言った。ただ「国がしては駄目だと定めた悪いことだけは絶対にするな」とも語っていた。そして「親孝行をしろとは言わないが、自分が親孝行したいんだったら思い切りやりなさい。それと兄弟を大事にしなさい。自分が困った時に役に立つのは兄弟だからな」と話していたのも、はっきりと覚えている。
「芸人は極道なんだから、親の死に目には絶対会えないぞ。お前らも覚悟しておけ」。そう語っていた父は、最期は母と子どもたち全員にみとられて逝った。
母は「大衆演劇の灯(あか)りを守り続けた人」と父を語っている。私も、そう思っている。
大衆演劇役者の梅沢冨美男さん(平成21年11月20日地元紙掲載)

 

幻想をかなえる仕事

セックスワーカー(オランダ)
アレクサンドラ(21)がガラス戸の中で体を揺らしている。人懐(なつ)こい笑み。下着を付けただけの引き締まった肢体。道行く男たちの視線を集めて楽しんでいる。
オランダは売春が合法化されている世界でも珍しい国。首都アムステルダムの「飾り窓」地区には昼夜1,000人以上のセックスワーカーが幅1㍍ほどのショーウインドー周辺に立つ。アレクサンドラはここに来て2年半。「この仕事は未来を開いてくれる」。そう言った。ブルガリアで高校卒業後、ウエートレスとして働いたカフェの月給は日本円換算で約7,000円。街の男たちは稼ぎもないのに酒ばかり飲み、同世代の女の子たちは金持ちの男をつかまえようと懸命だった。自分は違う生き方をと思った。
そんな時、オランダで3カ月だけ働いてマンションを買った友人から秘密を聞いた。「やってみなくちゃ、と思った」。
初日は恥ずかしくてガラス戸の前に立てなかった。「あたし何やっているんだろう」。それでも数人を接客し、手にした300ユーロ(約40,000円)近い現金に涙がこぼれた。自分の力でこれだけ稼げたことが嬉しかった。
欧米人、日本人を含むアジア人、アフリカ人。国籍も年齢もさまざまな男たちが毎日、ガラス戸をたたく。目、話し方、手の清潔さを素早く観察したうえで中に入れる。30分で最低50ユーロ。値段を決めるのは彼女だ。
「なんて美しいんだ」。赤くほの暗い明かりの下で男たちは大げさな称賛を口にし、自分の欲望の種類を伝える。1,500ユーロを稼ぐ日もある。
「抱き締めさせてくれ」とだけ言って彼女の背に手を回し、涙を流し続けた男もいた。政治や社会、自分の人生を語るだけ語り、そのまま帰る年老いた常連客もいる。「優しくしてあげれば、誰だって同じように優しくなるものよ」
▣現実は別
自分の仕事は「幻想をかなえる」ことだと思っている。「セックスは愛している人とするもの。わたしがしているのは偽のセックス。男たちの幻想に寄り添っているだけなの」。現実を共にする気はない。唇にはキスをさせず、しつこく迫る客には「警察を呼ぶ非常ボタンを押す」と脅す。
突然、悲しくなることもある。友達をつくらないことにしているこの街の冬は長く暗い。「いつまでここにいるんだろう」。涙が流れる夜の支えは自分の未来。今年の夏、故国に100,000ユーロのマンションを買った。「仕事とお金が私を強くした。でも心は『まじめな女の子』ままだと思っている」。来夏にはブルガリアに帰り、ビジネスを始めるつもりだ。
いつか結婚はしたい。両親にも未来の夫にも、ここでの仕事は秘密にし続ける。「誰にだって秘密はあるものよ」。黒く縁取った目を光らせて彼女は言った。
▣障害者を相手に
インガ(45)と会ったのはアムステルダム郊外のカフェの前だった。黒の中折れ帽に黒のコート。背が高い。コートを取ると、鮮やかなピンクのセーターが化粧気のない顔に映えた。
仕事を始めたきっかけは、障害者とセックスワーカーを取り持つ団体「社会性愛仲介所」で働く友人の打診だった。病気の母とシングルマザーとして生きる娘の面倒を見ていたインガには、1時間125ユーロという報酬は魅力だった。常連客9人のうち2人は知的障害者、7人は身体障害者だ。
農家に育った彼女は幼いころ農具で足に大けがをし、8年間松葉づえで過ごした。妹は知的障害者。障害は子どもの頃から日常の一部だった。
施設や自宅を訪れると、男たちは大げさなほど喜んでくれる。「いつも満面の笑みで迎えてくれる男なんてそうはいない」とインガはほほ笑む。
仕事を終えるとかれらの表情は変わる。「リラックスし、『ありがとう』と言ってくれる」。暴言を吐くことも、あれこれと要求することもない。
「セックスと愛が一つであることは理想だけど、現実はなかなかそうはいかない。愛は人生のボーナス。いつもあるものじゃない」。そう割り切っている。
「大切なのは自分の人生を愛し、自立していること、家族を守れること。それができる今の私は幸運なの」。
彼女は黒のコートを再び羽織り、背筋をぴんと伸ばして立ち去った。
共同通信部の舟越美夏さん(平成21年11月17日地元紙掲載) 

 

合法化が「権利守る」
オランダでは2000年、売春業が完全に合法と認められた。アレクサンドラのような飾り窓地区で働くセックスワーカーは自らの選択でこの職業を選んで「自営業者」として、税金を納め、医療保険にも入る。
この地区のセックスワーカーに仕事の情報を提供し、相談も受ける「売春情報センター」を設立した元売春婦のマリスカ・マヨール(41)は「決してなくならない職業だから合法にした方がワーカーの権利を守れる」と話す。現在、ワーカーの75%は東欧やアフリカ出身。人身売買や客引きなど違法行為も一部にあり、センターはそうした問題の監視にも目を光らせている。
売春婦は「心身共に疲弊する仕事」とマヨール。「彼女等の多くが仕事を家族に秘密にしており、精神的な二重生活に苦しむ例が多い」。特殊な環境で生活することから「長くやればやるほど抜け出しにくくなる」。
オランダでは、障害者の性の権利についても議論が活発だ。障害者のための性サービスを仲介する代表的な団体は3つあり、少数だが女性の客もいる。「社会性愛仲介所」によると、顧客として約2,000人、セックスワーカーとして約1,500人が登録しているという。障害者が性サービスを受ける場合、医療保険の適用を認めている自治体もある。