朴念仁の戯言

弁膜症を経て

最も健康だった薄幸の妹を思う

きょうだい3人のうち最も健康であった妹は、隣町の女学校を卒業すると、その町の委嘱で代用教員になった。やがて正教員の資格を取り、学校の評価も良く、生徒からも慕われる存在になった。

22歳の時、望まれてある男性と結婚したが、初めての子が心臓弁膜症で、背負ったり、寝かせてもおけない弱い子であった。1年ほどで子どもが亡くなると、妹は毎日、泣き暮らしていたそうだ。

妹はやがて肺結核にかかる。薬のない時代、結核は死病であり、妹は27歳で婚家で亡くなった。小康状態にあるとき、私は母のすすめで妹を見舞った。昔の面影はなく、痩せてしまった妹を見て私はびっくりした。

「子どものことばかり思い出しているの」。妹はそう言い、ぜひ泊っていってと言う。しかし、私は転職したばかりで気が焦っていた。また来るからと断って列車の人となった。

後でそのことを知った母が「なぜ泊ってやらなかった。たった一人の妹じゃないか。むごいことを」。そう言って涙をこぼした。母の涙が強く私を責めた。あれから半世紀、母もこの世の人ではない。

会津若松市の宍戸丈夫さん88歳(平成21年10月6日地元朝刊掲載)

 

乗り越えたかったのかも

脳溢血で入院中は不思議な感覚だった。

出入り自由って状態だったな。

あっちの世界に。

 

生と死の境

「影のない光」というものにとても興味がある時期があってね。それがちょうど脳溢血で倒れる前だったんだよ。光って、影があるじゃん。チベット仏教の「死者の書」に言う光、浄土の光には、影がないっていうんだよ。すべてがおのずから発光している。ああそういうの一回、見てみたいなあって。

そんなこと考えてると、ライブに行くのにさ、家から京浜東北線に乗って東京に向かう途中で、荒川を越えるんだよね。鉄橋をさ。その鉄橋の骨組みがさ、太陽の光を「バチバチバチバチ」ってさえぎるわけ。明滅がものすごいんだ。その光がね、総天然色でパーっと輝いたことがあったね。一回だけですよ。そんなころに、ブチッと切れたんだ。

不思議だよね。ある意味で生と死の境というものを、どっかで乗り越えようとしていたのかもしれないね。無意識にね。

死についてはわりと若いころから考えてきたんだよ。じいさん、ばあさんが死ぬとか、妹が死ぬとか、犬や猫も死ぬんだけど、これってどういうことなんだろう。考えたって分かんないんだけど、ふと「ああそうか」と。「オレがその死んだやつの分も生きなきゃならん」と思ったんだ。自分が生きればその分、死んだやつも報われるかな、と。

幻想なんだけどね。身内の死を乗り越えるためのペテンかもしれないんだけど、乗り越えなきゃしょうがないから、生きてるほうはさ。でもそうすると、魚飼ったりミジンコ飼ったりしてもさ、魚はミジンコを食う、ミジンコは植物プランクトンなどを食う、そういう命の循環の中に自分がいるということを、実感するようになるんだよね。生の裏側には必ず、死というものがある。

それが一回、間近に来ちゃったんだよな。死にたいってわけじゃないけど、死ぬのはこわくないという状態だったからね、あのころ。オレの場合はそこでパチンといったんだけどさ。

※サックス奏者の坂田明さん(平成21年9月某日地元朝刊掲載)

 

人間は死んでもまた生き続ける

仕合わせ
人は、一人ではしあわせになれない。
お互いに仕え(つかえ)合い、支え合ったときにしあわせという状態が訪れる。
「幸せ」とは本来、「仕合わせ」と書く。

自分は善人だと思っている人は救われない
「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」
親鸞歎異抄(たんにしょう)の有名な一節だ。
善人は救われる、もちろん悪人もそうだ、と解釈されやすく、それなら欲望のまま悪事を働いてもいいじゃないか、と誤解されることも少なくない。
ここで言う「悪人」は、それを悪と自覚している人を言う。
自分を悪人だと自覚している者は、仏、あるいは神にすがるほかないと思うから必死に救われたいと願う。
自分を善人と思っている者は必死に願うところまでいかない。
だから善人は悪人(自覚している者)よりも劣るという。
親鸞は、自分のことを「極悪深重(ごくあくじんじゅう)」―この上なく悪い人間だと言っていた。
親鸞は、身体や言葉で悪事を為すようなことは無く、しかしながら他人が窺い知ることのない心の中では悪事を為していた、と、この自覚が自分自身を極悪深重と言わせたのだろう。
凡人にはこれほど客観的に自分に冷徹な眼を向けることはできない。
仏教には「十悪五逆(じゅうあくごぎゃく)」と言われる罪がある。
十悪とは、殺生、偸盗(ちゅうとう―盗み)、邪淫(じゃいん―みだらな異性関係)、妄語(もうご―噓、偽り)、綺語(きご―おべんちゃら)、悪口(あっく―人の悪口を言う)、両舌(りょうぜつ―二枚舌を使う)、貪欲(むさぼり)、瞋恚(しんに―怒り)、愚痴(愚かさ)の行為。
五逆とは、母を殺す、父を殺す、阿羅漢(聖者)を殺す、仏の身体を傷つける、僧伽(サンガ―教団)の和合を破壊する、の行為。
以上の行為を心の中で思っただけでも罪を犯したことになると仏教は教える。
親鸞の和賛(仏教を褒め称えた日本語の賛歌)には「毒蛇悪龍(どくじゃあくりゅう)の如くなり。悪性(あくしょう)さらにやめがたし」という言葉もある。
人間は毒蛇、悪龍のようだ、それを止めることができない、と。

この世に永遠不滅のものはない
平家物語の冒頭の句、「祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹(さらそうじゅ)の花の色、盛者必衰(じょうしゃひっすい)の理(ことわり)をあらわす。おごれる人も久しからず。ただ春の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、偏(ひとえ)に風の前の塵(ちり)に同じ」
世の中のすべてのものは一定ではなく、絶えず変化を続けている。一瞬たりとも同じ状態を保つことはできない。永遠不滅のものなど一つとしてなく、何もかもが変化の過程にある。
自然界は、衰え、滅び、そして生成と発展を繰り返し、人も禍福は糾(あざな)える縄の如し、喜び、悲しみ、苦しみ、喜び、そして生死をも繰り返し、魂の進化を遂げる。
諸行無常」の言葉は、仏法の根本を記した「雪山偈(せつせんげ)」にもある。
諸行無常、是生滅法(ぜしょうめっぽう)、消滅滅己(しょうめつめつち)、寂滅為楽(じゃくめついらく)。
「すべての存在は移り変わる。これがこの生滅する世界の法である。生滅へのとらわれを滅し尽して、寂滅をもって楽と為す」

情けは人のためならず
人に情けをかけて助けてやることは、結局はその人のためにならないからすべきでない、と誤用している人は多く、私もそう思っていた。
実の意味は、「情けをかけることは人を幸せにするだけでなく、巡り巡って自分にも良い報いがある」ということ。
利他がやがて自利になるという教えである。
但し、始めから自分の利益を考え、利他に走っては自己中心的な「我よし」であり、意味はない。
計算なしで自然に行ってこそ意味がある。

生きるとは、息すること
呼吸の大切さ。

「雑阿含経(ぞうあごんきょう)」にある「盲亀浮木(もうきふぼく)の譬え」という有名な話
お釈迦さまは、「人間としてこの世に生まれてくることは、きわめて稀なことである。有り難いとは、存在することが難しい、珍しく貴重なことである」と説いている。
生きていること自体が貴重で、得難いものを自分は得ているという感動が「ありがたや」という言葉になり、感謝の気持ちを伝える言葉として人々の間に広がっていったのが「ありがとう」なのである。
本願寺法主親鸞聖人直系二十五世の大谷暢順さん著「人間は死んでもまた生き続ける」より引用
 

家業のパン作り手伝いたい

◆子としての責任

左足を切断してから「幻痛」との闘いが始まった。人は手足を急に失うと今まであった手足の幻覚に見舞われる。ないはずの手や足にかゆみを感じたり、痛みを感じたりするのだ。

先生に訊くと放っておけばいつの間にか消えるというのだが、待ちの姿勢は私が最も嫌うところだ。左足があったところに本を落としてみると、確かに痛い。フォークを突き刺す真似をすると、激痛が走る。火を近づけると熱い。

これらの感覚は心理的なものだというが、自分の体には左足がないことを教え込まないと、短期間で幻痛から解放されない。つまり足を失った現実を、頭と体に覚え込ませなければならないわけだ。

医師はまだ早すぎると難色を示したが、松葉杖を使って立ち上がる練習を始めた。シルバーリッヂでの転倒から3カ月たち、右脚の運動機能は極端に下がっていたが、それでも手術後11日目には松葉杖で歩けるようになった。義足もつけてみた。このような荒療治もすべて幻痛から抜け出すための手段だった。

懸命のリハビリが功を奏し、25歳の誕生日には外泊許可をもらい、自宅で誕生パーティーを開いた。ケーキに立てるろうそく1本にした。足を失ったことを起点に新たな人生が始まると覚悟を決めた。集まってくれた50人の友も分かってくれた。

8月早々、医大病院を退院し、今後どうするかを考え続けた。シルバーリッヂのマネジャーに復帰するのがごく普通な道なのだろうが、片足では満足な仕事はできるはずがない。さらに両親には、私が骨折をしたレストランの営業を続けることに抵抗があった。

結局シルバーリッヂは閉店となり、得意な英語を教えながらで一生食べていくことも考えた。しかし、それでは物足りない。

兄は学者としての道を歩み続けており、家業のパン屋を継ぐことはできない。両親が作り育てたパン屋を一代限りで閉じるのはあまりにも切ない話だ。両親がパン屋をやってくれていなかったら、私はもうこの世に、いることはできなかったはずだ。

こうして1981(昭和56)年10月、両親の前で臆面もなく「家業のパン作りを手伝いたい。親父の仕事を助けて、銀嶺を日本一のパン屋にしたい。それが使命だと思う」と宣言してしまった。

これを聞いた父は実に嬉しそうにほほ笑み、一方、母は戸惑った表情を示した。母はパン作りについて何も知らず、足も不自由な私に務まる仕事は電話番ぐらいしかないだろうと、不安でたまらなかったのだ。

社長の息子だからといっていきなり父の後を継ぎ、デレデレしたのでは従業員に示しがつかない。こうした事情を考え、働いた結果が数字で表れる営業職を希望した。「販売なくして製造なし」を肌で知りたかったからだ。

大卒の初任給が12万円のとき、私がもらった給料は10万円。母に不満をぶつけると、母は「あなたは単独では何もできない。営業にしても車を運転する人が必要だし、納品だって一人ではできない。だから給料も安くなるの」と、決して甘やかしはしなかった。

※銀嶺食品工業社長の大橋雄二さん(平成21年9月1日地元朝刊掲載)

 

支えてくれた左足切断

◆新たな試練

1979(昭和54)年7月25日。23歳の誕生日。自宅に友人、知人、レストラン従業員を招いて誕生会を開き、みんなの前でゆっくり歩いて見せた。閉店後の秘密の特訓は、コックしか知らなかったので、その時のみんなの呆気にとられた顔は忘れられない。

一人で外出できるまでに回復した8月からは休日、学校に通えない子どものために陶山先生が開設し私が名付けたアイリス学園で、ボランティアの英語授業を再開した。アイリスとは「虹の女神」の意味だ。その頃には通信教育で勉強した甲斐もあって、英語検定1級の資格を取得し、英語講師で食べていける自信もついた。

やがて大学予備校からは英語講師として授業するよう頼まれ、自分で言うのも変だが、受け持った授業はそれなりに人気があった、と思う。夏期講習を自宅で開いたところ、20人もの生徒がやって来た。英語講師は30歳近くまで引き受けていた。

この頃が健康な人より数年遅れてやってきた青春真っ盛りだった。ついに病気を克服した、との達成感に満ち溢れ、酒も飲んだし、デートもした。

しかし、好事魔多しである。81年3月、馴染みの客やスタッフに不自由ながらもかっこよく歩ける姿を見せたくて買ったウェスタンブーツを履いてレストラン内を歩いた瞬間、左足が捻じれて転倒してしまった。ボキッと鈍い音がした気がする。

取り合えず自宅で注射と湿布で様子を見たが、腫れはなかなか治まらない。痛みも増すばかりなので、陶山先生にレントゲンを撮ってもらうと、左足が骨折しているではないか。直ちに済生会病院に入院し整形外科のお世話になったが、当時は血友病のために通常の手術はできず、気長に骨がつくのを待つしかなかった。

入院から2カ月たったが、左足は快方に向かうどころか骨折部は腫れる一方だった。レントゲンを撮り画像を見ると、膝の骨が溶けてなくなっていた。

骨肉腫の疑いがあるというので、医大病院に転院した。骨のがんである骨肉腫ならすぐに切断しなければ手遅れになる。こう告げられた時は周りの全員が、絶望感に襲われた。

けれども、ものは考えようである。これも試練の一つで、左足を失っても命を落とすよりは、まだましだ、また歩いてみせる、と割り切った、というより割り切るしかなかった。

手術の前日には兄も帰省した。兄は東大大学院で統計学を研究していたが、私の病気を一つのきっかけに日本の医療統計が、いかに遅れているかを痛感し、この分野の研究に打ち込むようになった。後年、兄は36歳の若さで東大大学院医学部保健学科疫学教室の教授に就いた。

6月4日午前9時30分、手術が始まり、やはり左膝には4㌢の隙間があったが、恐れていた骨肉腫ではなく、手術は正味1時間ほどで終わった。術後、母は兄と一緒に病理室で切り取った足を見た。

あまりにも無残で細い足であったが、よくもここまで雄二を支えてくれた、と手を合わしたそうである。

※銀嶺食品工業社長の大橋雄二さん(平成21年8月30日地元朝刊掲載)

 

 

天国の父と話す孫うらやましい

娘が2人目の子を身ごもった時、父はすごく喜んで男の子を望んでいた。

娘の出産を楽しみにしていたのに、父はその誕生を見ることなく逝ってしまった。孫が生まれ、しばらくたって不思議なことが起こった。当時、1歳3ヵ月だった上の子が突然、部屋の隅を指差して「じい」と言った。

驚いてその方を見ても、誰もいない。誰かいるのと聞いても「じい」を繰り返すだけだった。最初は気味が悪かった。しかし、そんなことが何度かあると「もしかして」と、思いがよぎった。

「じいちゃんが、あーちゃんに会いに来たんだよ。顔を見ないでい(逝)っちゃったから」と娘たちに言った。その後、また指を差した時に、「じいちゃん来たの、あーちゃんは元気な子だよ。見てあげて」と言ってみた。

そんなことを何回か繰り返すうちに、孫は何も言わなくなった。あの世で、きっと気が済んだのだ、というような思いになった。

最近、5歳になった孫が夜また、父と会話をしたらしい。

はじめて一人で泊まった夜のことで、「一人でお泊りできるのか。えらいな」と褒められたという。

幼いときは霊感が強いと聞いたことがある。ちょっぴり孫がうらやましい。私もかなうことなら父と話がしたい。

いわき市原島千恵子さん61歳(平成21年8月14日地元朝刊掲載)

 

マイ・ハシしてますか

夕顔咲くうどん屋で

暮れ残る店先の夕顔を横目にうどん屋に入ったら、八割がた埋まっていた店内の空気がほぐれずに何だかとげとげしていた。訳も分からずテレビの前のカウンターに座り、冷やしたぬきうどんを注文する。店員はこわばった顔に苦笑いを浮べている。他の客はうどんをほおばりながら、上目づかいに見るともなくこちらの様子をうかがっているようだ。一体どうしたのだろうと見まわすと、椅子一つへだてて短髪の男がいたわさを肴に一人で冷や酒を飲んでいた。七分袖のダボシャツからむきでた胸から首のつけ根にかけて、大きな痣のようなものが覗く。はっとしてまばたくと、図柄が定かでなく色も褪せ加減であったが、まちがいなく赤紫色の入れ墨であった。店の緊張のもとはどうやら彼らしい。

ダボシャツに彫り物。昔ならそれほど珍しくもないその形(なり)は、今あらためて眼にすると、渡世人と堅気の図示的な分類がよほど徹底してからだろう、確かに違和感がある。といって、この男を暴力団組員と決めつけてよい証拠があるわけでなし、店や客にことさら迷惑をかけているのでもないようだ。入れ墨男はしきりにひとり言を言っていた。「まったくやってられねえよ」だの「なにいってんだい」だの「いやな世の中だねえ」だのと愚痴のたぐいを誰にともなく洩らしている。横顔を盗み見ると、入れ墨の威勢と不釣り合いの、意外なほど柔和な面立ちの初老の人なのであった。もうかなりきこしめしている。そうか老いの繰り言かと安心したら、「ちぇっ、くっだらねえ!」と、今度は罵声が店内すみずみにまで響きわたって、空気が一層こわばった。

男はテレビに向かって悪態をついているらしい。声量は店側がわざわざ警告しなければならないほどには大きくないけれども、耳障りではあり、彫り物とダボシャツというイメージも大いに手伝って〝公序良俗〟に反していると判ぜられる可能性がなくもなかった。しかし、男のいるカウンターには5千円と100円玉が何枚か置いてあり、無銭飲食でないことをこれ見よがしにして、トラブルを回避しようとしているようではある。冷やしたぬきがくる前に、男と一瞬目が合った。「脳溢血かい…」。問うでもからかうでもなく、彼は小声でしんみり言った。冷やしたぬきがきた。麻痺で利き手が使えない私は、酔っ払いのためにやや気が動転したのか、フォークを頼むのを忘れていた。絡まれては面倒なので、割り箸をどうにか割って、左手でうどんを不器用に口に運んだ。「ふん、うめえもんだな…」。入れ墨男がまた小声でつぶやいた。悪い気はしない。

テレビはどこかの自治体が役所をあげて積極的な「エコ」に取り組んでいるという特集をやっていた。酔っ払いはコップ酒をあおりながら、私はうどんを口にしたまま、ぼうっとテレビを見上げた。その役所ではエコ運動の一環として資源節約のために割り箸消費を抑えるべく、〝マイ・ハシ運動〟をやっているのだという。VTRが流れる。昼食中の職員たちに課長だか係長だかが近づいていき、背後から「マイ・ハシしてますか?」「エコしてますか?」と声を掛けては覗き込むようにしている。てっきり冗談かと思ったら、若い男女のキャスターがマイ・ハシ運動が成果を上げ、今ではエコ意識が役所中で高まっている、と真顔で伝えていた。右横から入れ墨男が大声を上げた。「全員バカか、こいつら!」。客らは皆すくみ上がった。

酔っ払いはそれから私に向かい「お客さん、マイ・ハシしてますかあ?」「エコしてますかあ?」と声を掛ける。奥からたまらず店の主人がタオルで手を拭き拭き出てきた。入れ墨男はそれでもしつこく、マイ・ハシしてるか、エコしてるかとふざけた調子で問うのだ。主人が入れ墨男に「ちょっと、ちょっと…」と声を掛けるのと私が右横に答えを返すのが同時であった。左手で割り箸をぐいっと突き出し、勇を鼓して「マイ・ハシしてませーん」「エコしてませーん」と店中に聞こえる声で言ってやった。酔っ払いが爆発的に笑った。客らは何も見えず、聞こえないふりをする。

何かがゆっくりと静かに狂っている。狂いのもとをあかすことができないまま、狂いがますます闌(た)けていく。店を出ると、夕顔が薄闇にさっきよりさらに白く滲んでいた。

※作家の辺見庸さん(平成21年7月10日地元朝刊掲載)