朴念仁の戯言

弁膜症を経て

世界の先住民族の叡智を見習う②

最初に、ニュージーランドに住むマオリ族ですが、1000年程前に、太平洋のどこからか渡ってきた民族といわれています。18世紀にイギリス人がニュージーランドに到来し、かなり迫害されましたが、最近は力を取り戻しつつ、神から与えられた土地を守り、神々の恵みとともに生きる生活を実践しています。まず、土地に対する考え方ですが、マオリ族に限らず、先住民族には土地を所有するという概念はありません。土地は神からの預かり物であり、必要な時に使わせていただく資源なのです。しかし、イギリス人が入ってきて、マオリの土地をイギリス女王に預けるという「ワイタンギ条約」を、騙し討ちのような形で締結させられてしまいました。そもそも土地を所有するという概念が無いマオリの人たちには、権利の無いものを、どうして女王に差し出すのかということが理解不可能であったのです。現在まで、例外的に共有制度が残っている広大な牧場がありますが、その牧場では1500人くらいの人々が地権者となり、羊と牛を飼って利益を分け合い、子どもの教育費や、困った人々の援助にも使っています。また、マオリの人々はありとあらゆるものに、霊魂があると考えています。日本でも巨大な木や岩は信仰の対象となりますが、彼らも同様の考えです。しかし、ヨーロッパ人が移住してきた時、牧場を作るということで、北島では96%の森林が伐採されてしまいました。現在では4%の森林がかろうじて残っているだけです。マオリの人たちの中には誰の土地でもない土地に植林をし、そこから海に流れて行く水をきれいにしている人々がいますが、海を守るためだということでした。共有するか、所有するかという概念が違えば、環境に対する行動もこれほど違ってきます。マオリの人は森に入る時、マオリ語でお経のようなものを唱えます。「自分たち以外の者を連れてきた。この森にいる全ての精霊がその者を受け入れるように」という内容です。彼らは、土地の霊に対しても強い信仰を持っています。ニュージーランドに初めてできたトンガリロ国立公園の背後には火山が連なっていますが、伝説では、マオリ族の祖先の英雄がこの島に渡ってきた時、吹雪で凍え死にそうになりました。故郷に祈りを捧げると、火が送られてきてこの場所でその火が引き出され、その英雄は命を永らえたとされ、ここはマオリ族の聖なる場所となっています。ここを国立公園とした経緯には興味深い話があります。イギリス人が土地を奪っていくときに、当時の酋長が、聖地であるこの場所だけは開発をしないという条件で、イギリス女王に全部の土地を渡しました。そこでイギリスも約束を守り国立公園としたというのです。

東京大学名誉教授 月尾 嘉男さん ※神道時事問題研究より引用)平成21年3月1日発行

 

がん闘病 走る喜び変化

膝の痛みも「うれしい」 

プロランニングコーチ 金 哲彦(きん てつひこ)さん

マラソン選手として現役時代に2時間11分台の記録を持つプロランニングコーチの金哲彦さん(53)には、生涯忘れられないレースがある。2007年7月、オーストラリアのゴールドコースト・マラソン。記録は自己最低の5時間42分だった。

その11カ月前に大腸がんを手術したばかり。膝の外側が痛み、最後の12㌔は歩いてゴールしました。途中で完走できそうだと分かったら、うれしくてね。「ああ、またマラソンランナーに戻れた」という気持ちでした。

 ▽周囲には伏せた

がんが分かったのは06年の夏、42歳でした。ハーフマラソンを走った帰り、新幹線のトイレで大量下血をしたのです。

01年まで監督していた実業団の陸上部が休部になり、翌年、市民ランナー中心のクラブを設立しました。独立後はかなりストレスのある生活でしたが、体調は悪くなかった。下血後に内視鏡検査を受けたら「即手術です」と言われ、目の前が真っ白になりました。思えば2年ほど前の人間ドックで、便の潜血反応が出て「要再検査」と言われていました。それががんのサインだったとは思いもしませんでした。

開腹手術後12日で退院し、8月末の北海道マラソンの解説をしました。スタッフに「痩せましたね」と言われたけれど、がんのことは伏せました。

スポーツ選手だったので、敗者になりたくないのですね。がんになってかわいそう、と思われたくない。周囲に悟られまいと、手術の痕が痛くても腹筋運動とかやっていました。粋がっていましたけれど、内心は不安でした。

 ▽遺言のつもりで

がんはステージ3で、大腸壁から外へはみ出していました。5年生存率が70〜80%と聞いて、再発や転移の不安が消えることはありませんでした。

パソコンを開くと同じ病の方のブログとか、どうしても見てしまう。「しばらくアップがないなあ」と思っていたら亡くなっていたと知り、自分もそうなるのかとまた不安に駆られる。

手術をした年、ランニングのハウツー本を書いてみないかと言われて、「3時間台で完走するマラソン」を書きました。ランナーとして自分が培ってきたものを全部詰め込んだ本です。がんには触れず、編集者にも話しませんでした。遺言のつもりで書きましたが、ランナーに「バイブル」と呼ばれるほどのロングセラーになりました。

 ▽フル完走が自信

手術から数カ月後、少しずつ走り始めました。痛みはあるが、気持ちいい。病を忘れます。

ゴールドコースト・マラソンを完走できたのはすごく自信になりました。「自分はがん患者だ。でも同時にマラソンランナーなのだ」という気持ち。精神的にバランスが取れ、前向きになれました。

09年11月、つくばマラソンで3時間を切りました。完全復活です。その直後、がんで手術を受けたことを告白した「走る意味」という本を出版し、周囲からも「カミングアウトしたからにはまだ死なないよね」と言葉をもらいました。

命に関わる病を抱えると、人生の陰りを感じるようになります。「走る喜び」の意味が変わります。ゴールドコースト・マラソンの途中、膝が痛くなったときに、うれしいのですね。自分は脚が痛くなるぐらいに走れている。こんな経験はありません。病を得る前とは全然違う感覚です。

昨年はフルマラソンを13回走りました。ハーフが4、5回かな。走ることが生きることにつながる。幸せです。

(平成29年6月5日地元朝刊掲載)

 

世界の先住民族の叡智を見習う①

東京大学名誉教授 月尾 嘉男さん

 地球の環境問題は憂慮すべき状態になっております。その原因は三つあると思われます。一つは、ある特定の信条を信じるかどうかで人間を判断し、世界を征服してきた「一神教」という宗教です。二つ目は、17世紀以来、「西洋科学」が現代社会で中心となっていることです。これは、もの事を分けていくと真理に到達するという考え方ですが、細かく分けていけば全てが分かるのかといいますと、そうではなく、全体を見失ってしまうのです。三つ目は、「産業革命」による工業技術です。産業革命は、便利にすればするだけ、資源とエネルギーを使うという技術を急速に発展させてきました。例えば、人間は時速4㌔㍍でしか歩けませんが、自動車は時速80㌔㍍で移動できますから、人間の20倍の速さで運んでくれます。ところが、人間が1㌔㍍歩くのに使うエネルギーは約45㌔カロリーですが、自動車が人を1㌔㍍運ぶと、約860㌔カロリー必要です。これもほぼ20倍のエネルギーを使います。これこそが産業革命以降の技術の典型です。このままエネルギーを使い続ければ、石油は長くて100年、金(きん)は今後15年で枯渇します。地球上から金が無くなるわけではありませんが、新たに掘り出される金は無くなります。鉄以外の殆どの金属資源は100年以内に無くなってしまうということです。地球はそこまで危機的な状況に追い込まれているのです。そこで、現在とは逆の世界、つまり、一神教でもなく、西洋科学中心でもなく、便利さのために多量のエネルギーを使う社会でもない世界を見直すべきだと考え、先住民族のことを調べはじめ、「先住民族の叡智に学ぶ」というテレビ番組を作るため、世界中を回っています。今日はこれまで、私が見てきたニュージーランドマオリ族ラップランドに住むサーミ族、そして、アメリカインディアンの人々の生き方を通して、我々がこれからの社会を考える上で役に立つと思われることを、ご紹介したいと思います。

神道時事問題研究より引用)平成21年3月1日発行

 

善人なおもて往生す、いわんや悪人をや

母が鼠径ヘルニアの手術で入院した。

手術日は5月16日だった。

妹は前日から母に付きっきりで、朝は病院で朝食が出る前から病室に出張り、夜は母が夕食を食べ終わるのを見届けてから家路に着いた。

その間、細やかな配慮は休むことがない。

妹のその姿から献身という言葉が頭に浮かび、人に尽くすとはどういうことか、私にありありと教え示す。

と同時に、妹の清らかな無心の行動は私のひねくれた心をあぶり出し、私を不快にさせる。

男女の違いで気が利く利かないは関係ない。

その気があるかどうか。

男女の前の一人の人間としてその気を起こそうとしない己に反吐が出る。

手術後の不自由な体の母へ、労わりの言葉の代わりに小言を発する私。

母が年老いてゆくことへの無性の怒りと愛しさがごちゃまぜになって。

妹よ、ありがとう。

弟よ、ありがとう。

私は愚かな悪人です。

 

南極と犬

歩み来て、未来へ 12 観測に貢献、危険察知

 

10㍍先に2匹の犬がいた。毛が伸び、子グマのように丸くなっているが、確かに置き去りにした犬だった。近寄って来ない。こちらも足を踏み出せなかった。

1956年の第一次南極地域観測隊犬ぞり係だった九州大名誉教授、北村泰一(77)の脳裏には、50年前のその光景が自責の念とともに焼きついている。

 活 躍

日本人と極地の歴史はカラフト犬を抜きにしては語れない。カラフト犬は寒さに強く、粗末な食事にも耐え、力が強い。

20世紀初め、日本人として初めて南極探検に挑んだ陸軍中尉、白瀬矗(のぶ)もカラフト犬を連れていた。当時、南極点は前人未到、誰が先んじるかが大きな関心を集めた。白瀬、アムンゼンノルウェー)、スコット(英)らが国家と国民の期待を背負って競争していた。 

白瀬は10年に東京・芝浦港を出港、12年に南緯80度05分まで到達するが、極点には届かない。20匹のカラフト犬を置き去りにした。白瀬は生涯悔やみ、帰国後、仏前に「犬隊員」と書いて供養したという。

戦後の南極観測に犬ぞりを導入したのは第一次越冬隊長で探検家でもあった故西堀栄三郎だった。北村を含む一次隊53人はカラフト犬とともに56年11月、観測船「宗谷」で南極へと向かった。

極寒の地。雪上車は頻繁に故障した。それに代わって犬ぞりが大活躍する。走行距離は雪上車を超えた。

「それ以上に、犬たちには何度も命を救われた」。北村はそう振り返る。

昭和基地から約200㌔離れた山ボツンヌーテンに犬ぞりで向かったとき、先頭の犬が急に止まった。その先には氷の大きな割れ目。

別の場所では、先頭の犬が割れ目を飛び越えて行った後、別の犬が立ち止まった。落ちたら生還できない。「犬には危険を察知する能力があった」

 再 会

一次隊は西堀、北村ら11人が越冬、犬たちも残った。装備が貧しく、食料も燃料も潤沢とはいえなかった越冬隊は「生きて帰ればよろしい」と言われたという。

58年2月、二次隊が来るが、天候の悪化で昭和基地にたどり着けない。北村ら一次隊は小型飛行機で宗谷に帰還した。15匹の犬は鎖につないで基地に残した。

北村は三次隊に参加、一年ぶりに昭和基地に到着する。2匹の生き残りに再会したのはその時だった。

置き去りにしたことを恨んでいるはず。動けなかったのはそう思ったからだ。2匹がどの犬か分からず、残した犬の名を片っ端から呼んだ。

「タロか」。そう呼んだとき、1匹のしっぽが動いたような気がした。「タロか」。もう一度叫ぶとしっぽが大きく揺れた。

もう1匹に呼び掛ける。「じゃジロか」。お手のポーズを取った。ジロの癖だった。

置き去りにした一年前の重苦しい空とは打って変わって陽光がまぶしかった。北村と2匹の犬はどちらかともなくにじり寄る。やがて抱き合った。

ほかは7匹は鎖につながれたまま死んでいた。あと6匹の姿はなかった。

「15匹は単なる犬ではない。南極を生き抜いた戦友だ」。北村は死んだ7匹をソリに乗せ、南極の海に水葬した。「魂がつぶれた」。しぼり出すような声だった。

日本は南極でオゾンホールを観測し、大量の隕石(いんせき)を発見した。今年、南極から帰った第四十九次越冬隊長の牛尾収輝(46)は「犬ぞり時代から積み上げてきた観測データが大きな成果をもたらした」と話す。

移動手段として欠かせなかった犬ぞりは今、ヘリコプターや高性能の雪上車に取って代わられた。カラフト犬の姿はない。

 供 養

京都府舞鶴市の造船所。初代「宗谷」から四代目となる南極観測船、新「しらせ」の建造が急ピッチで進む。その名は白瀬中尉にちなむ。世界トップクラスの砕氷能力、最新鋭の観測機器、LAMも配備される。11月に初航海の予定だ。

だが、北村は最近の観測・研究には批判的だ。「機器や設備に頼りすぎではないか。研究者も基地の中にばかりいる。外に出て、だれもやっていないことをやるという冒険心がなければ新しい発見もない」

タロ・ジロとの再会から9年後、昭和基地近くで白い犬が死んでいるのが見つかった。特徴から、行方不明だった6匹のうち「リキ」の可能性が高い。

「南極で活躍したのはタロ・ジロだけではない」。あれから半世紀、北村は今年、再び南極を訪れ、犬たちを供養してやりたいと願っている。77歳の隊員は前例がない。選ばれるかどうか。

「でも『ありがとう。すまなかった』と言ってやりたいんです」

(文・沢野林太郎さん)平成21年3月28日地元朝刊掲載

 

とてつもない巨人、利休

直木賞に決まって 山本 兼一

このたび、「利休にたずねよ」という作品で、第140回の直木賞をいただくことに決まった。まことに光栄なことだと感謝している。

歴史小説を書くにあたって、わたしは、できるだけ綿密な取材をすることを信条としてきた。

松本清張賞をいただいた「火天の城」を執筆したときは、7年の時間がかかった。

織田信長のために安土城を建てる城大工の物語だが、たっぷりと時間をかけて取材したかいがあって、城郭建設現場のリアリティーが出せたと自負している。この秋には映画化されて公開される予定である。

信長に仕えた鷹匠(たかじょう)を書くときには、鷹狩の会に入って、鷹狩に連れて行っていただいた。自分でモンゴルでの鷹狩も体験してきた。

やはり信長に仕えた砲術師の話を書くにあたっては、火縄銃を手に入れたうえ、火薬の譲受、消費許可を取得して、射撃場で実際に射撃をした。火縄銃の射撃は、いまも趣味として続けている。自分で鉛を溶かして鋳型に流し込んで玉を作るのがたいへんなのだが、全日本選手権大会にも出場している。知らない人に言うとたいていは驚かれるのだが、火縄銃実弾射撃の愛好者は、少数ながらいて、年に4回、全国的な大会が開催されている。

山伏の祖、役行者(えんのぎょうじゃ)を書くためには、吉野の奥駆け修行や、羽黒山のこもり行に参加した。

刀鍛冶の話を書くときは、親方の工房を訪ね、弟子部屋に泊めてもらって、鍛刀(たんとう)の手伝いを体験させていただいた。

これらの取材は、体育会系で、疲れるし気も張るが、それでも楽しいものだった。

千利休を書くにあたっては、当然、お茶を習わなければならない。

かなり敷居の高さを感じたが、えいっと思い切って、門をたたいた。

通わせていただいたのは、京都紫野大徳寺の塔頭(たっちゅう)でおこなわれている稽古(けいこ)会である。

わたしは、そのお寺の近所で育ち、いまでもそこに住んでいる。自宅から歩いて行ける距離に、利休とゆかりの深いお寺があったことが、そもそも利休を主人公とするこの作品を書くことの大きな動機であった。

お茶を習いに行って、まず驚いたのは、その精妙さである。

茶道をご存じの方にはなんでもないことだが、最初、わたしは、畳の目を数えるということを知らなかった。

客としてすわるときは、畳の縁から十六目。水指の前に茶碗と棗(なつめ)を置くときは、あいだを三目離すー。茶を点(た)てるという華やかな所作のなかに、そんな厳しい規律を持ち込んだ利休という人物が、わたしには、とてつもない巨人に思えた。たしかにそのとおりにしたほうが美しいのである。

さまざまなことを実際に体験するうちに、胸のうちに物語が醸されてくる。

「利休をたずねよ」の場合、物語の醸し具合が、ちょうどころあいだったと、自分でも満足している。

※平成21年3月1日地元朝刊掲載

 

山本氏はこの5年後の平成26年2月13日に亡くなった。

享年57。

同氏の気骨ある著作の数々に今後の動向に注目していただけに早過ぎる死が惜しまれる。

だが、人生の長短がその深浅に等しいとは限らない。

「いかに生きたか」、その意味では充実した人生を送られたものと察する。

山岡鉄舟を主人公にした「命もいらず名もいらず」を近いうちに読んでみたい。

 

若いころ下向いてた

老いの哲学⑧ 俳人宇多喜代子(うだきよこ)さんが語る

 

私が直接、俳句習った桂信子いう人に「一本の白髪おそろし冬の鵙(もず)」いう句があるけど、老いは不意打ちに来ますわね。じわじわ来るようである日、突然。こないだも私の後ろ姿を写真に撮った人がおってそれ見たらまあ、完全におばさんだね。後ろなんて見えないじゃない。「前」は張り切ってやってるつもりでも。もう頑張らないのがいい。逆らう必要ない。

まあ俳句いうのは年寄りも受け入れられる文芸だから、よろしいよ。若いときは「老人の趣味」と言われるのがものすごい嫌だったけどね、明らかにボケ防止にいいと思うようになったわ。適当な頭脳労働でしょ。人と接するでしょ。それと季節とか動植物とか、動くもんに関心を持つでしょ。老人生理学にいいわけ。

今は天体がおもしろい。雲なんかね、一日見てても飽きないね。月の形で今日は何月何日か、だいたい分かるようになったし。若いころは下ばかり向いてたなあと思って。なんか小理屈こねてやっとったけど。エネルギーがなくなるからね、思考の。それもあんまり無理せん方がいい。

かつてこぶしを振り上げて「文学」やってた同輩たちが、今もって同じスタイルで、若い者に負けまいとやっているのを見ると、かわいそうで。「年寄りぶりっこ」の方がいいって。昔から「年寄りぶりっこ」言われてんの、私。松田聖子ちゃんが出てきたころから。

お正月はこうせい、とか、お月見は…とか、お年寄りが言うようなことばっかり言うてたからでしょ。でも昔のお年寄りはそれが、次の歳事を待つのが喜びだったと思うんですよ。今は楽しみの間口が広がったから、あれですけど。

年取るとね、未来ってせいぜい来年の花見までよね。長いスパンで未来を考える必要なくなるのは、今が楽しいいうことでな。おばあさんは「向日葵(ひまわり)の大きな花が咲きにけり」みたいな句つくるわけだ。そりゃそうだわなあ言うて。ほんとおもしろいわ。

阿部みどり女が「九十の端(はした)を忘れ春を待つ」と詠んだりね。九十といくつか忘れた言うの。虚子が年下のお弟子・風生とのことを「風生と死の話して涼しさよ」とかね。晩年みな恬淡(てんたん)として、力を抜いた句をつくる。これはしめたもんですね。なかなか、意識してできるもんではないから。

私はそうねえ。「粽(ちまき)結う死後の長さを思いつつ」「死に未来あればこそ死ぬ百日紅さるすべり)」。これは親しくしてた中上健次が死んだときに詠んだ句ですけど、あれは実感だったな。死んでからの方が長いな、と。死んでからずーっと死んでるんだな、と。若いときに詠んだ死の句とは全然違う。

観念的じゃなくなるね。親しい人が多く向こうへ行くとね、向こうの世の方が近くなる感じで。日野草城の「菊見事死ぬときは出来るだけ楽に」やないけど、痛くなかろうか、くらいでね。

※平成2136日地元朝刊掲載